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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

かぐや姫になれなかった<僕>――松村栄子『僕はかぐや姫』感想

僕はかぐや姫 (福武文庫)

 

 松村栄子『僕はかぐや姫』を図書館で借りて読みました。2006年センター試験の現代文で取り上げられた表題作は、2006年以降にセンター試験を受けた人間たちの共通体験と言っても過言ではなかろうと思います。かくいう僕もセンター試験の過去問でこの文章と出会ったくちなんですが、その時強く印象に残ったのを憶えています。それでなんとなく頭の片隅にあったりなかったりしたのですが、5年以上の月日を経てようやく再開しました。以下で感想を。

 <僕>という一人称

 この物語を読んでまず面食らうのは、女子高生がなんの説明もなく当たり前のように「僕」という一人称を使うこと。これが、受験勉強中にたった一回触れたこの文章が強く記憶に残った理由なのかもしれませんが。それでネットでは「僕っ娘百合小説」なんて呼んだりする人もいるみたいですが、そんな冗談めかした言い方は僕はする気にならない。冒頭の場面では何故彼女(たち)が<僕>という一人称を使うのかはわからないが、読み進めていくうちに、その理由が、少なくとも語り手である千田裕生にとっての理由は語られることになる。

女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた<らしさ>の全てが疎ましくなって、すべてを濾過するように<僕>になり、そうしたらひどく解放された気がした*1

 女子高というある意味特異な環境では、そうした彼女のふるまいはさして奇異なものには映らない。作中でも、彼女が身を置く文芸部には<僕>と称する女子高生たちが登場する。教員を除けば女子しかいない環境では、「男は男らしく、女は女らしくせよ」というジェンダー規範は薄まり、「女らしくするのが嫌」ならそうしないで生きることもできる。

 しかしそれも、結局女子高という特異な環境ゆえ許されることだと、賢しい裕生はわかりすぎるほどわかっている。

「そうじゃなくて、十七歳というのはただ十七歳だというだけで至福の年なんだから、大切にめいっぱい謳歌すべきだと……」*2

 こう語り17歳であることに彼女が強くこだわるのは、18歳になることで<僕>であることの困難さに向き合う時間が近づくことを理解しているからだろう。彼女と一瞬の時間を共有し、その時は<僕>を称した辻倉尚子は、やがて<僕>であることをやめる。

尚子のほうは部会に出てこなくなり、会えばからからと空虚に笑うようになった。尚子の魂はくぐもったベールに包まれ、三年になって同じクラスになってみると、いつしか彼女は<あたし>という一人称を身につけていた。*3

  そして千田裕生もまた、〈僕〉であることに別れを告げることになる。

要するに否定と拒絶からなる<僕>は、のびやかで透明だったけれど、虚ろに弱々しくもあった。*4

  そんな儚い<僕>は、魂の高潔さとか、清さを損なわないために、そんな理由で選びとられたものでもあった。

かけらを損なう恐れのあるものはたくさんあった。女になること、おとなになること、さまざまな知恵をつけること、何かに馴染むこと。<僕>が防波堤だった。*5

  それでも彼女は<僕>を捨て去り、<わたし>を選ぶ。『僕はかぐや姫』は、<僕>が<わたし>になる物語だ。弱いままで、損なわないではいられない。強くなければ、損なわなければ、前に進めない。どこかで、何かを失わなければならない。そうだと知り、受け入れることを、成長というのかもしれない。

 僕は成長という言葉が嫌いだ。なんというか、「成長」という言葉を使うことによって、成長することによって到達するあるべき理想像を必然的に措定してしまう気がするから。だから彼女のこの「変化」を、「成長」とは呼びたくないし、成長という言葉が含みこむような、ポジティブなイメージが語られてもいない、と思う。

 

かぐや姫の物語」は悲劇か

 <僕>が<僕>でいられない悲劇。<わたし>にならざるを得ない現実。

かぐや姫って結局、男のものになんないのな」

 そうかつて裕生と付き合っていた藤井彰の語る「かぐや姫」は、現実と対置される。高畑勲の語った『かぐや姫の物語』は悲劇だったが、藤井の、そしておそらく裕生のそれは悲劇ではない。俗世のしがらみを突き抜けて月へと還るかぐや姫は、否定的な一人称でしか自身を名指せなかった裕生にとって、ひとつの夢だったのではないか。

 「かぐや姫」になれない<僕>が、<僕>であることをやめる。そうして彼女は強くなる。だけど、<僕>を捨てても、<僕>がいたことを、多分彼女は忘れない。今は「紫陽花の影」にいるかもしれない<僕>は、やがて遠ざかってしまうだろう。でも、<僕>が<僕>でいられた時間のことを、彼女はきっと忘れないと思う。

 

 こんなことを思いました。それと『僕はかぐや姫』はある意味『少女革命ウテナ』だと思います。外に出れない、でも外があることを見つめ続けるウテナ。こんなこというと思考停止の馬鹿みたいですけど。『僕はかぐや姫』はウテナです。はい。

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僕はかぐや姫 (福武文庫)

僕はかぐや姫 (福武文庫)

 

 

 

 

そういえば、今日、2014年7月に設置したアクセスカウンターが5万を超えました。やったね。

*1:文庫版42-43頁。以下頁数は文庫版に拠る。

*2:8頁

*3:42頁。

*4:44頁

*5:87頁

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