あしかけ1年くらいかけて、今日ようやく『少女革命ウテナ』を見終えました。最終回「いつか一緒に輝いて」を見終えた瞬間の胸の滾りときたら、それはもう、筆舌に尽くしがたく。創作物に触れて「言葉を失う」という体験をしたのはいつぶりだろうかというくらいの衝撃がありました。とりあえず、思ったことを書き留めておこうと思います。
「王子様」の条件
『少女革命ウテナ』は、主人公である天上ウテナが「王子様」になる物語である、と要約できるのではないか。「王子様」とはいったい何なのか、それが鮮烈に示されるのが、後半の鳳暁生編、そしてそれに続く黙示録編である。なのでこの文章では主に後半部分のことを語ることになると思います。
かつて人々を救う使命を背負った「王子様」は、その使命のために疲弊し、苦しむことになった。「王子様」を救うためその力を封じたその妹=姫宮アンシーは、「魔女」として人々の憎悪を一身にあつめ、その憎しみの具現である無数の剣に貫かれ続けることになった。
「彼女が魔女と呼ばれたとき、ディオスもまた、王子様ではなくなった。王子様としての俺は存在しない」
かつての「王子様」は、自身の妹である姫宮アンシーを結果的に「魔女」として責めを負わせ続けている。そこから彼女を救うための「革命」のために、かつて「王子様」だった男が仕組んだのが決闘ゲームだったというわけだ。
おそらく、無限ともいえる回数を積み重ねられたに違いない決闘ゲームという茶番。それは毎回、かつて「王子様」だった男が「王子の剣」を手中に収めるものの、結局「薔薇の門」、世界を革命する力を秘めた扉を破ることはできず、また「魔女」は剣に貫かれ続け、新たな決闘ゲームが開始される、という終末を迎えたのではないか。
その円環の中で、かつて「王子様」だった男は、理想の体現者であるディオスと、現実を相手に戦い続けられるだけの狡猾さをもつ「世界の果て」=鳳暁生のふたつに、自身を分けざるをえなかった。理想の体現者ディオスはしかし、現実には無力であり、それと裏表をなすかたちで、「世界の果て」も理想を失う。かくして「革命」の可能性は見捨てられ、真の革命の可能性をもっていたかもしれない決闘ゲーム自体も、歴史を繰り返すだけの茶番劇に堕してしまった。その繰り返しの茶番の中で、アンシーは残酷な痛みと苦しみから脱け出せずにいたのである。
その無限の苦しみの円環から、アンシーを救い出すこと。それがディオスの理想に触れた天上ウテナにとって、「王子様」になる、ということだった。
ウテナが「王子様」になることの不可能性については、作中で何度も言及される。それは何より彼女が「女の子」だからだ。女性らしくせよ、という圧力に彼女は何度も何度も遭遇する。
「もっと女の子らしくしなさい」(「第30話 裸足の少女」、女教師)
「もし君が大きくなっても、本当にその気高さを失わなければ、彼女は永遠の苦しみから救われるかも知れないね。でもきっと、君は今夜のことを、すべて忘れてしまう。仮に覚えていたとしても、君は女の子だ。やがては女性になってしまう」(「第34話 薔薇の刻印」、ディオス)
「君はいい女さ。女の子でいるべきなんだ」(「第38話 世界の果て」、鳳暁生)
そして黙示録編では、彼女が「王子様」を目指すことをやめ「女」になった、とまで指摘されもする。鳳暁生への恋心によって、彼女は「王子様」の資格を失ったのだろうか。
「彼女は、世界を革命する者になりたかったんじゃない。だが、今の彼女の心はあなたにある。王子様より、現実の男であるあなたを選んだ」(「第37話 世界を革命する者」、桐生冬芽)
ウテナ自身も、自分のふるまいを「王子様ごっこ」と自嘲気味に語りもする。
しかしむしろ、この「王子様ごっこ」に過ぎないのではないかという自問が、アンシーを救いたい、という彼女の理想を明確に駆動させる。
「ボクは、君の痛みに気づかなかった....君の苦しみに気づかなかった。それなのに、ボクはずうっと、君を守る王子様気取りでいたんだ。ほんとは、君を守ってやっているつもりで、いい気になっていたんだ。そして、君と暁生さんとの事を知った時は...。ボクは、君に、裏切られたとさえ思ったんだ.....。君が、こんなに苦しんでたのに....。何でも助け合おうって、ボクは言ったくせに。卑怯なのはボクだ。ずるいのはボクだ。裏切ってたのは、ボクの方なんだ」
ウテナの思いを、アンシーを救いたいと表現するのは間違いなのかもしれない。結果的にアンシーを救うことになったわけだが、彼女の思いは、「アンシーと一緒にいたい」と言い表すのが適切だろう。
「きっと十年後にも、一緒に笑ってお茶を飲もう。約束だ」
そのためにウテナは、薔薇の門へと手をかける。どんなに自分が傷ついても、それが不可能だったとしても。「女の子」なのに「王子様」を目指し続けた彼女にとっては些細なことだ。どんなに全能の力があり、人間を自在にあやつることができたとしても、そんなことに大した意味はないのかもしれない。しかし、その「ひたむきさ」だけでは打ち破れるほど、世界の殻は薄くはない。
「かつては俺もそうだった。ひたむきさに価値があり、それが世界を変える唯一の術だとね。だが、ひたむきさだけでは何も変わらない。力がなければ、所詮誰かに依存した生き方しかできないのさ。世界を変える力を得るため、俺は十分リスクを支払ってきた。それが世界というものだ」
そうペシミスティックにごちってみせる「世界の果て」は、はたしてどれほど「ひたむき」だったのか。その気高さを失うことを恐れて、理想と現実に自身をわけ、本当には「魔女」と向き合うことを避けてきたのではなかったか。「王子様」が本当に「王子様」でなくなったの瞬間は、多分、理想と現実とを二分することを決断したときだ。大人の狡知によって理想が傷つくことを避けてしまったことが、革命の可能性が失われた要因なのだ。
たとえ「女」だったとしても、気高さを失ったとしても、どんなに傷ついても、それでもひとりの「王子様」たろうとすること。それこそが「王子様」の条件に他ならない。
ほんの小さな一歩、しかし果てしなく思い一歩
そのウテナの行動も、結局は革命など起こせなかったのかもしれない。あれほどの人気者だった彼女も、数ヵ月後には学園の生徒たちに忘れ去られ、彼らはいつも通りの日常を歩んでゆく。彼女自身が言うように、それは「王子様ごっこ」にすぎなかったのか。
しかし、その行動がアンシー自身を変革した。そのことがウテナの為した唯一の、かけがえのない革命だった。
「今度は、私が行くから。どこにいても、必ず見つけるから。待っててね、ウテナ」
アンシーが踏み出したこの一歩。この一歩が踏み出されるためだけに、おそらく『少女革命ウテナ』という物語はあった。ほんの小さな一歩かもしれないが、それは果てしない重みをもつ。こんなちっぽけな一歩が、いやちっぽけな一歩だからこそこ革命なのだ。
一歩を踏み出せないものは、学園という円環の中に囚われ続けるしかない。御影草時はそのことに気付かないままに一方的に「卒業」を言い渡されたが、御影と暁生にそれほど本質的な違いはないのかもしれない。一歩を踏み出すことができない男たちと、踏み出して見せた女たち(ウテナ・アンシー)。
その一歩を踏み出すためには、何よりもまず、自分自身のすべてを賭ける覚悟が必要なのだろう。その賭金は、現実を知りすぎるほどに知っている暁生には重すぎるかもしれないが。
まとまりがありませんが、こんなことを思ったのでした。劇場版はまだみてないので、はやいとこみたいです。はい。
追記
劇場版の感想
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