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地球の鼓動は恋、火星の鼓動は愛―『アルドノア・ゼロ』感想

アルドノア・ゼロ オリジナル・サウンドトラック

 

 録画しておいた『アルドノア・ゼロ』を一気見。その感想を簡単に。

 3人の主人公とその位置

 地球と、火星に建国された帝国が敵対する世界。和平のために地上に降り立った皇女、アセイラムの暗殺(未遂)をきっかけとして戦端は開き、火星の騎士たちが揚陸城なる異形の兵器と、古代文明の遺産・アルドノアを備えたスーパーロボットとともに圧倒的な力とスピード感で侵攻してくる。これだけでもう最高ですね。カタストロフは最高です。

 それに対して軍事教練を受けた高校生がなんとか生き延びるために決死の抵抗をみせる序盤の展開に、この作品の、少なくとも第一クールの基本的な方向性は顕れている。ダビデとゴリアテ。ちっぽけな量産機が、超性能のワンオフ機を知恵と勇気で撃退していく。あとで知ったんですが作品のコンセプトが「火星側のスーパーロボットをどうやって地球側のリアルロボットが倒していくか」って感じだったのですね。しかし第二クールではちょっと趣向が変わっていた気もしますが。

 それはさておき、そのスーパーロボット打倒の先頭に立つのが主人公の一人、界塚伊奈帆なわけだ。巻き込まれたからといって少しも取り乱さず、「可能性のいちばん高い途」を躊躇なく突き進む、徹底した対応者。彼の知略によって、自分たちの優位を信じて疑わない傲岸不遜な火星の騎士たちが打倒される展開は、わかっちゃいても面白い。

 とはいえ一介の高校生である伊奈帆くんは、徹底的な対応者であるけれども、対応者でしかない。ミクロレベルでは圧倒的な影響力をもっていても、マクロな戦略レベルの事象には意識的に介入はできない。この立ち位置は全編を貫いていて、やれるとしたら意図的にアセイラム姫の正体を秘匿してみたり、火星の騎士を逃がして突破口を開こうとするくらい。投瓶通信を投げることぐらいの感じだろう。

 

 一方で主人公のひとりでもあるアセイラム姫は彼とは全く対極で、ミクロレベルの戦術では全く無力と言っていいが、マクロの戦略レベルで圧倒的な影響力をもつ。彼女の鶴の一声が、物語全体を決定づける決定力をもっているといっていい。

 そして最後の主人公、スレインくんは伊奈帆と姫との間との位置をうろうろする。「蝙蝠」とは伊奈帆が彼を名指した言葉だが、これは劇中の彼の位置座標をこれ以上なく表現している。火星と地球のあいだ、姫への慕情と彼女の殺害を試みたザーツバルムへの忠誠とのあいだ、そしてミクロとマクロのあいだを、いったりきたりしているようにも思える。しかし結局、伊奈帆ほどミクロレベルの戦場を掌握する力も、姫ほどマクロレベルの戦局を左右する力も持たなかったことがスレインくんの悲劇だとも思いますが。

 2クール目での彼の火星の封建体制内部での地位の向上は、彼のマクロレベルでの影響力の拡大を意味する。マクロレベルの戦局を動かしうる力を得たスレインは、火星騎士たちをトップダウン式に指揮し、ちょっとは戦果をえる。しかしまあ、火星の人たち気付くの遅すぎである。ともあれ、スレインくんの行動がはっきり意味があったのも事実。

 しかし悲しいかな、姫様の決死の行動によって彼の行動は脱臼させられ、それまで着々と舗装されていた敗北への道が姿を現すのである。最終話の直前にして、ある意味すべてはおわってしまった。1クール目の最後を飾る「EPISODE.12 たとえ天が堕ちるとも-Childhood's End-」が王道ともいえるクライマックスだったのに対し、2クール目は驚くほどアンチ・クライマックス志向。それにも関わらず、最終話で「あえて」クライマックスを演じてみせようとする、スレインと彼の部下たちの悲しさ。それが敗北するってことなのかもしれないな、なんて思ったりしました。

 

愛にすべてを

 そんなわけで、結果的に徹底的にミクロレベルの対応者だった伊奈帆が、マクロレベルの力を得たスレインに勝利する、というのが本作の大まかな筋だと思っています。この二人をわけたのは、結局のところなんだったのか。

 伊奈帆とスレインは、アセイラム姫を通して奇妙な形で結ばれている。どちらもアセイラムからアルドノアの起動権を意図しない形で与えられ、命を救われている。そしてその二人のいずれもが、アセイラムに恋焦がれていた。地球という故郷で不自由なく?過ごしたであろう伊奈帆と、故郷を離れ決して自由とはいえない環境で育ってきたであろうスレイン。かたや冷静沈着、かたや過剰ともいえるほど感情豊か。その二人を結ぶ唯一の接点が、アセイラムという女性だったというわけだ。

 スレインくんは、特に言うまでもないが、姫を思う感情は溢れでんばかりであった。しかし「彼女のために平穏な世界を築く」という目的のため、彼女の戦略的価値を利用することをいとわなかった。この倒錯こそが彼を破滅へと導く。

 一方伊奈帆くんは感情のない戦闘マシーンかと思わせておいて、その姉・界塚ユキの洞察やら、アナリティカルエンジンが自律的な行動を見せた際の発言から、明らかにアセイラムを強烈に意識している。彼女に戦略的な価値があることはもちろん承知はしていて、それを意識しないことなどなかったろうが、それ以上に彼女個人を助けたい、という意思が彼を突き動かしていたように思われる。

 

 個人としての愛と、政治的な含意。アセイラムという一人の女性に対して、それらの両方を併せ持ってしまった少年たちが、互いが互いを意識し、憎みすらしたのは、彼らが結局同様の公私混同によって動機づけられた似た者同士だったからだろう。

 二人の最終決戦で、最終的にはスレインは愛機タルシスの特殊能力、ほんの少し先の未来を読む力を放棄し、「未来なんて必要ない」とまでいって伊奈帆に挑む。一方の伊奈帆はというと、それまで脳への負担を厭わず使用してきたアナリティカルエンジンを、最後の最後で使用するのをやめ、最後の一撃を加えようとする。ある意味それまでの互いの信念を反転させたこの最後の邂逅によって、彼らの道は分かたれたのかもしれない。この二人のどちらが勝者となるか、それはほんの些細な差でしかない、とも。

 そんな、似ているがゆえに憎み合う彼らのはるか高みに、アセイラム姫はいる。彼女が和平のために地球に降り立つことで幕を開けた物語は、彼女がアルドノアの福音を地球にもたらすシークエンスで幕を閉じる。彼女がなにゆえ和平を望むのか、地球を憎まずいるのか、それは窮極的にはわからない。彼女は異常なまでに他者を信じ、調和のために行動する。それが侵略を目論む輩に利用されたものの、結局姫の意志と決断とが、どちらかが絶滅するまで殺し合う最終戦争を回避した。それをミクロなレベルに落としこんだのが、伊奈帆がスレインの命を助けた、という行為なのかも。

 『アルドノア・ゼロ』は、姫の愛が欲望渦巻く戦争も恋ゆえの争いもぶっちぎて、最後に勝利する物語だったんです。多分。

 

 地球と火星との対立とか、そんなことはどうでもよく、そんな背景とロボットという道具立てを使って、ちょっとビターなボーイ・ミーツ・ガールものをやってみたのが『アルドノア・ゼロ』なんじゃないかと思ったりもします。それを演じるのに、志村貴子さんのデザインしたキャラクターたちは最も適していた、という気も。

 

 そんなことを思ったりしました。設定周りとかいろいろ突っ込みたいところは無数にあるんですが、それを言ったところで別にこの作品の楽しみ方がより深まるとは思えないので、こんな感じで。