宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

世界はそれでも終わっていない―『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』感想

小説 映画 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド (KCデラックス 週刊少年マガジン)

 

 実写版『進撃の巨人』後編こと『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』をみました。お出かけしようと思った矢先に春日太一さんが後編を滅茶苦茶酷評する呟きが流れてきたので、もしかして実写『デビルマン』クラスの歴史に残る映画を目撃してしまうのではないか、みたいな不安があったんですけど、いや僕は楽しめました。楽しめてしまった。これは春日さんの呟きでハードルが下がってたからとか、そういうのではないと思うんですよね。以下で感想を。ネタバレが含まれます。

 キャッチコピー「今度は、人類の番だ」の意味

 巨人になることによって、絶体絶命かと思われた仲間たちの危機を救ったエレン。しかし目覚めた彼に突き付けられたのは、守ったはずの人類の一部からの猜疑の目、そして銃口だった。

 設定を大幅に変更しつつも、原作のシーンを組み替え再配置することによって物語を展開させていった感のある前編に比べて、後編は原作から遠く離れたストーリーが展開される。原作の面影がはっきり見出せるのは、上述したアバンの巨人エレン裁判くらい。後編はオリジナルの設定をフル活用して、生き残りのメンツでなんとか壁の修復を目指す、というのが大目標としてある。

 そんな大目標の前に立ちふさがるのは前編で大活躍してくれたモブ巨人たち、というわけではない。むしろ人間同士の諍いが、その目標達成を一筋縄ではいかないものにする。後編で展開されるのは、人類の未来をめぐる対立で、だから巨人の存在感は(知性のあるものは例外にして)、意外なほど薄い。

 前編の感想で、「主役は薄気味悪いモブの巨人たちだ」みたいなことを書いたんですけど、後編はそんなことは全然なく。モブ巨人は背景化していて、たまーに前に出てきても一瞬で派手に臓物をまき散らす係に甘んじている。「巨大ゾンビ」映画、と前編を形容していた人がいたけれど、後編にその要素は皆無で、だからそういう方面に過剰に期待していた人には肩透かしだろうなー、なんて思ったりもしました。

 巨人が人をぱくぱく食べるシークエンスに代わって、人間たちの対立が前景化してくるわけなんですが、それを劇場でみていて合点がいきました。ああ、「今度は、人類の番だ」ってのはそういうことなのかと。

f:id:AmberFeb:20150920054900j:plain

 「今度は、人類の番だ」って、普通に読むなら「お、こっから人類が巨人に反撃しちゃうんかー」みたいなそういう風に読むと思うんですよね。しかしこれは決してそういう意味ではない。「今度は巨人に代わって人間同士の戦いが中心やからねー」という意味だとしか、見終わったあとには思えない。その意味でこのコピーはメタ的だ。嘘をついてるわけじゃないけど、別の期待を読む者に植え付ける、いやこれは秀抜なキャッチコピーだと思いました。割と本気で。内容に期待を裏切られたという人はキャッチコピーを読めていないだけなのである!(暴言)

 

極右と極左の共倒れ

 その対立は、もう大方予想の通り、実写版オリジナルのキャラ同士の目指すものの違いによって生じる。これがまた親切で、後編でその思想の大部分を開陳してくれるので、後編からご覧になるお客様も、前編の内容をお忘れのお客様も安心の設計となっております。

 既存の管理された社会の維持を目論むのが、國村隼演じるクバルであり、そうした体制を崩壊させ自由を取り戻そうとするのが、長谷川博己演じるシキシマという構図。現状維持か革新か、という主張はわりとそれぞれに理がありそうなもんですが、クバルもシキシマもあまりにも主張が極端すぎ、明らかにこれはどちらの側にも与せんでしょ...という感じ。

 クバルは人類の平和のためなら巨人によって恐怖を植え付け口減らしするのも辞さないみたいなスタンスだし、シキシマはすべての壁をぶっ壊してそのことによって人類を自由にするんだ、みたいなことを言い出すし、こいつら大丈夫かと。巨人にいつ食べられるやもわからぬ世界に住む人間の考えていることは、巨人に食べられることなどそうそうない世界に住む僕には理解しがたい。だから別に彼らの極端さが映画の面白さを云々するものとは僕はまったく思わないです、念のため。

 エレン君と仲間たちは、極右と極左に挟まれて、おら、おれの立場を選べや、という状況に立たされるので、もうどっちも選ばないのは必定。エレン君たちはそんな世界のなかでは意外なほど僕らに似た価値観を持っているから主人公なのかもしれない。

 結局エレンくんたちはどちらとも戦う道を選ぶわけですが、なんと極右と極左はどちらも巨人だったので、それは即ち知性をもった巨人と戦う展開へと彼らを導くわけです。この世界ではもしかしたら、変な薬を撃ち込まれる以外にも、政治思想を先鋭化させることが巨人になる為の条件なのかもしれない。

 そのクバル、シキシマとの対決が後編のアクション的な見せ場であり、なかなか迫力があって楽しかったです。これは僕がかなりスクリーンよりの席で鑑賞していたからかもしれませんが、立体機動装置の見せ方なんかは前編の予告とは雲泥の差がある気がして、ワイヤーで引っ張られてる感がうまいぐあいに隠蔽されていて、アニメ版ほどの爽快感は求めるべくもないにせよ、普通に見ていられるものだったと思います。エレンとシキシマの戦いの決着とか、え、それ*1喰らっちゃうの、あんだけ生身では圧倒してたのにみたいなのはあったんですが。

 そんな巨人同士の戦いなんですが、このクライマックス、決着は意外なほどカタルシスがない。ネタバレする、と頭に書いたのでネタバレしますが、クバルとシキシマがうまい具合に共倒れしてくれる。極右と極左が仲良く対消滅し、めでたく壁はふさがれる。しかしこの、敵の打倒にカタルシスがないのは、狙ってやってると思うんですよね。だってエレンの目指しているものは別に巨人の打倒ではないわけだから。

 巨人の打倒ではなく、エレンの夢がひとつかなえられるラストショットにテンションのピークはあって、それがおれは結構好きだったりするのです。眼下に広がる美しい廃墟。そして無辺の海。それを大スクリーンでみられただけで割と満足でした。

 

 

 

与太話 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』としての実写版『進撃の巨人

 前編の感想で書いたように14年後の赤く染まった世界の物語は展開されなかったけど、後編は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』でした。なんか連れ去られて無機質な部屋に幽閉されて、セカイの真実みたいなものを知ったりとか。

 そんなことよりなにより、ラストショット、あの眼下の荒野にエヴァQ感を感じたわけですよ僕は。シンジとアスカとレイ(仮称)がとぼとぼ歩いて行った赤い大地と、あの荒野は機能的に等価なのです。等価なのです。

f:id:AmberFeb:20130801120027j:plain

 とはいえシンジくんのようにエレンは絶望してはいなくて、それは別にエレンくんのせいで巨人がうろうろする世界になったわけじゃないから、というのが最も大きいんじゃないかと思うんですが、あくまで前向きにエヴァQを語りなおしてみせた、みたいなものを感じるわけですよ。

 赤い大地も廃墟の街も、色彩は異なるけれど人間のいなくなってしまった世界という意味では等価。それにたいして、あくまで輝くような笑顔をもって相対してみせるエレンくんのパーソナリティに、シンジくんに前に進めとエールを送っているような感じがするというか。それでも世界は終わってなんかいねーんだよ、っていう。

 お前は何言ってるんだって感じですが。はい。

 

関連

 前編公開後にアニメ版をみ、原作既刊は読み、という準備をして臨んだわけなんですが、いやいや実写版、最高ではなかったかもしれませんがよかったと思いますよ。前編は、原作と比べて云々、みたいなある種の規範批評的な物言いが散見されたように思われるのですが、なんというかそういうの「おしゃべり」としてはアリだけど、レビューだのなんだのという立ち位置のもとなされるのは最高にナンセンスじゃないか。好き嫌いと評価を混同するのはどうかと思うというか。それらが時に相互作用するのは避けられないにせよ。

 それはそうとアニメ版は好きです。

 

 「行こう、外の世界へ!」なので実写版『進撃の巨人』は実質ウテナ

 

「SOS/プレゼント」通常盤

「SOS/プレゼント」通常盤

 

 

 

進撃の巨人(18)限定版 (講談社キャラクターズA)

進撃の巨人(18)限定版 (講談社キャラクターズA)

 

 

【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:樋口真嗣

‣脚本:渡辺雄介町山智浩

‣出演

広告を非表示にする