先日信頼できる男として知られる景浦氏からちゅーばちばちこ『金属バットの女』を託されまして、ばっと読んだんですけども、ネット上の感想をざらっとあさった限りではどうもイマイチぴんとくる感想がなくて、この作品がこうも語られていないというのはこの作品にも信頼できる男にも失礼であろうという気持ちから、このほど僕が拙いながらも拙いなりに言葉を尽くしてみようとこうして筆をとった次第です。以下感想。
べらぼうにかわいい女の子がいた。その子は俺の家族を殺した。たぶん金属バットで。俺はそいつと同居することになった。世界の人間を馬鹿みたいにあっさり殺す「試験官」とかいう化物と、唯一戦い、そして倒すことのできる、その「金属バットの女」、椎名有希と。
第9回HJ文庫大賞特別賞受賞作である『金属バットの女』は、極めてソリッドな文体で、極めて類型的な物語を語っている小説であるような印象を受けるのだが、そのソリッドさと類型的な物語とがそれぞれ極端なまでに徹底されているがゆえに、一種異形の小説のような感触をもたらしている。
文体というか文章のリズムは、どことなく舞城王太郎のテクストを彷彿とさせるのだけど、ちゅーばちばちこの語りの際立った特徴は、徹底したディティールの乏しさにある。ディティールが乏しいと形容すると一種の批判めいた言明に感じられるかもしれないが、このディティールの乏しさはあまりにもあからさまであるというような印象を受けるので、ディティールの排除と言い換えてもいい。
今日は土曜日だった。けど学校で試験があった。俺はペンシルを動かして問題を解いた。まずまずだった。*1
学校だった。眠かった。頬杖をついて黒板を見ていた。十一時だった。*2
たった二か所の引用で全体の文体をどうこういうのもちょっとどうなのという気はするのだけど、この引用個所に語りの雰囲気はなんとなく表れているように思う。短文の積み重ね、単なる事実の確認めいた発話、これに加えて時たまうんこだのいんぽだのという品のない語句を適宜挿入することで、『金属バットの女』は語られている。
こうしたディティールの排除は情景描写だけでなく人物描写にまで及ぶ。物語をドライブさせていくキャラクターである椎名有希は、どうやら語り手にとっては美少女として映り、そして語り手の好みにぴったり合致するような外見らしいのだが、その外見がはたして如何なるものなのかという描写は排されているように感じられる。加えて、怪物のみならず、語り手の家族やその他多くの一般人を殺害していく彼女の所作や言動は、特段の印象を残すのものではない、という気がする。なんというか、この『金属バットの女』を読んで改めて、キャラクターに魅力を感じるのは、その外見についての何気ない描写や、なんてことのない日常的な所作、そうした様々なディティールの積み重ねによるのだな、ということを再認識させられた。つまり、この「金属バットの女」椎名有希は、キャラクター的な魅力に驚くほど乏しい人物として表象されている、そのように感じられるのである。
一方、物語のほうはというと、所謂セカイ系的な構造を極めて単純化して、そのセカイ系の骨組みがそのまま露出したかのごとき様相を呈している。ここでセカイ系をどのように定義するのかというと、それは俗流の定義こそがこの作品にぴったり当てはまるように思われる。前島賢『セカイ系とは何か』から引用しよう。
- 少年と少女の恋愛が世界の運命と直結する
- 少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている
- 社会の描写が排除されている*3
以上のような一般に流布したセカイ系作品のイメージを述べたうえで、前島はセカイ系概念の始まりに遡ってその再定義を試みているのだが、それについてはここでは措く。なぜならこの俗流セカイ系のイメージこそ、『金属バットの女』の物語の骨格であり、アルファでありオメガであるからだ。もはや一つの類型と化したフォーマットを、その類型を余計な装飾もせずにむき出しで差し出してみせたのが『金属バットの女』であるという気がする。
そしてそのセカイ系を乗り越え、なにがしかを見出そうとするあがきとしてこの『金属バットの女』は読むことができる。徹底的に類型的な物語を語ってみせた後、そのクライマックスにいたって、無数の結末の類型を順繰りに提示する。語り手が覚醒し最後の敵を倒す、語り手こそが最後の敵であった、そもそもこれは語り手の夢であった、云々。しかしそのいずれも棄却され、この類型的なセカイと語り手とが切り離されて、金属バットの女をめぐる物語はセカイ系の呪縛から解き放たれる。
語るべきディティールをもたず、ただ類型のなかでしか物語を語ることのできないことへの諦めと苦しみとがこの『金属バットの女』を駆動させ、そして異形の小説たらしめているという気がする。ディティールなき類型的な物語はもはやある種の空虚でしかない。その空虚さを空虚さとして提示して、もはや空虚でしかありえない生をその空虚さによって肯定するような所作、それこそがこの『金属バットの女』が刻み付けたものなのではないか。
関連?
椎名っていえば椎名さんがキーパーソンで登場するセカイ系作品の典型があるわけだしそういう目くばせがあんのかなとか今思ったんですがこういうこじつけは不毛ですね。
なんかFateにだいぶ引きずられた感想になった感をあとから感じました。