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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

自己啓発的なるものの重力――牧野智和『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』感想

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

  牧野智和『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』を読みまして、いや大変勉強になったのでメモっておこうと思います。

 自己啓発的なるものと私たち

 本書は、『20代でしておくべきxxのこと』だの『30代はxxxで決まる!』的な*1所謂自己啓発本を分析していく。本書の目的を本文から引用すると、以下の通り。

本書が企図するのは、自己啓発書による日常的振る舞いの切り分け方、格づけ方の観察を通して、何を行うことで自分にとって、あるいは他者に対して、自らの存在(アイデンティティ)が証明できることになるのか、その存在証明の区分線を浮き彫りにすることにある。*2

  そうして、「今日における通俗的な差異化・卓越化(ディスタンクシオン)の一形式を、自己啓発書を素材にして明らかにすること」*3を目指す。具体的には男性向け・女性向けの自己啓発本を分析したのち、私たちの日常に深くかかわり、それをターゲットにしている「手帳術」と「片づけ」についての言説を自己啓発の文脈から読み解く、というような構成。「手帳」は時間感覚に、「片づけ」は空間感覚にそれぞれ関わるものとして捉えられ、日常的な時間・空間に自己啓発的なるものが如何に「侵入」しているのかを論じてゆく。

 だから本書は単に自己啓発的なるものを分析するにとどまらず、そこから照射される私たちの生きる社会、本文の言葉を借りるなら「生との対峙の形式」を浮き彫りにする。だからこそ本書は抜群におもしろい。自己啓発本に縁のない人間にとっても、そしておそらく自己啓発本を読んだことのある人にとっても。

 僕はそのカテゴライズでいったら前者にあたる人間で、自己啓発本の類は読んだことも書店で眺めたこともなく、正直言ってその類の本が発する雰囲気をなんとなく軽蔑してもいた。読んだこともないのに、なんとなく。自己啓発書の特徴として本書が指摘するものに、なんとなくその感覚の源泉を見出して腑に落ちたりもして、それも本書を読んだ効用の一つだったかなという気がします。

啓発書が説く「成功」は一見して、獲得的文化資本へのコミットメントをさらに下支えする、社会空間のなかで偏って配分されている経済資本・文化資本の所有状況とある程度の関係を有するようにみえるのだが、「成功」を司る変数としてそうした社会的背景は捨象され、感情的ハビトゥスの意識的習得というたった一つの変数が司る問題へと縮減されてしまうのである*4

  社会的な要因、環境的な要因をそぎ落として無視して、そうしてなんとなくマッチョなシバキ主義めいた世界が成立している、そのことがなんとなく本の中身が全部嘘っぱちに感じられる要因だったのだなと。で、そういう本読んでる人ってやっぱり…とか浅薄な僕は思ったりするんですが、そういう決めつけはすぐに冷や水を浴びせられる。著者が自己啓発本の読者にインタビューしたところ、多くの読者は自己啓発本の主張を鵜吞みにして100パーセント従ったりはせず、わりあいほどほどに適当に、選択的に取り入れる、というような受容をしているという。なんとなく僕が想像していた、自己啓発本の主張を全面的に内面化して動くマッチョな人間なんてのは藁人形もいいところで、だから自己啓発本の読者を小ばかにしていた僕の方が阿呆だったと。

 そういう意味で僕の先入観を打破してくれたわけですが、それ以上に本書が強烈なのは、そうした自己啓発本とそれが構成する界というのが、単にそれを読む読者にのみ関係するものではなく、より広く、適切な言葉かわかりませんが社会全体に共有されたものではないか、そう感じさせる点にある。

閉じた世界の論理を記述したい / 『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』著者、牧野智和氏インタビュー | SYNODOS -シノドス- | ページ 2

 上のインタビューで著者は、「「自己啓発書に騙されないオレ」のような立ち位置は単純には成り立たないと思うのです」と述べているが、それが本書全体のトーンであるともいえる。

 確かに、男性向けの自己啓発本の基本的な戦略である「仕事における卓越」への志向、女性向けのそれのバックボーンである「自分らしさ」なんて、やっぱりちょっと受け入れがたくはあって、それへの軽侮は拭い難いのだけれども、そうした世界観をひとつの「自己確認の日常的参照点」として、日々再確認してゆく、そうした生の構え自体はなんというか、他人事として切り捨てるのはあまりに困難である、という気がする。

啓発書の購読行為は、近年の自己意識の変化の「先端」でより発生するような行為なのではないか、と。つまり、自己の戦略的使い分けが進展し、自己意識に揺らぎを感じるような状況に対する、自己意識のメンテナンスツールとして。また、自己肯定感や自分らしさが感じ難くなるような状況に対する、その低減傾向の防波堤として。そして、なりたい自分を求めるという、ますます強固となる「自己についての文化」を我が物にするために、というように。*5

  だから本書を読んでいると、自己啓発本とそれが形成する界という極めて限定的な対象が論じられているにも関わらず、それが自分自身の日常、それが埋め込まれた社会というものを否応なしに考えざるをえなくなる。その意味で、「監視と処罰」という周縁的と感じられるような事象を通して、近代的なるものものの機制を暴露するミシェル・フーコー『監獄の誕生』、あるいは消費という限定的な行動によって社会全体が覆われ構築されている、そうした世界像を提起した*6ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読んだ時の感覚と非常に近しいものを、本書を読んで感じたのである。社会のなかのある対象を論じていくことで、社会そのものの、世界の認識が変わってしまう、そういう力がある種の書物には備わっていると思うのだけれど、本書にはその力がある。

 しかも恐ろしいことに、書物を読む→私に変化が生じるというこの構図自体は、皮肉なことに自己啓発をめぐるコミュニケーションとまさしく同型ではないか、という感覚も去来する。この私は確かに自己啓発本を読んではいない、読んではいないのだがその世界にはからめとられているのではないか。自己啓発本の「機能的等価物」として、私はこの本すら読んでいるのではないか。これはある種の誤読かもしれないが、そのような感覚を私は確かに覚えたのである。『日常に侵入する自己啓発』が自己啓発のように身のうちに侵入してくるわけですよ。

 

自己啓発から遠く離れて(生きることは果たして可能なのか)

 さて、本書の内容についての感想はこのくらいにして、誤読ついでにちょっと本書の内容から離れてとりとめのないおしゃべりをしようと思います。あ、それはともかくあらゆる研究書の例にもれず本書の読みどころは具体的な自己啓発本の分析にこそあると思いますので、是非ともお読みになってください。

 終章で著者は「自己啓発書を読むという行為の「機能的等価物」について検討することも必要かもしれない」*7と述べている。それについては今後の検討課題、としているが、完全に僕個人の偏見と経験から思い付きを述べると、フィクションというのは自己啓発書の機能的等価物として受容されることがままあるのではないか。これも偏見からの雑語りですが、おたくと名指される人びとは自己啓発本を必要としないのではないか。なぜなら、彼らにとってはアニメや映画やゲームこそが、「自己確認の日常的参照点」たりえているから。

 少なくとも僕にとってはそうだという気がして、フィクションの感想をTwitterなんかで述べるとき実存云々みたいな言葉を選ぶのって、まさしくそのように受容してしまっているから、という気がするのですよね。このブログに書いた感想なんかを眺めるとそれが顕著に滲んでいるのでは、という気がしていて、僕にとって映画を見たりアニメをみたりして、その感想を書くことというのは、本書の言葉を借りるなら「自己のテクノロジー」として、自分と世界との折り合いをつける一種の仕方としてあるのではないか、そういう感覚があるわけです。

 しかし映画にしろアニメにしろ、僕は素人に過ぎなくて映画研究者でもアニメ研究者でもなく、だから作品を語る語彙の貧弱さも手伝ってどうしても「自己」に惹きつけてしまう、ということになる。だから、映画語りとかアニメ語りの専門的な語彙を装備する、というのは、自己啓発的なるものの重力から離れて作品を語るために必要なのかな、と思いつつ、しかしあらゆることの専門家にはなれないのだし、どうしても自己啓発的なるものの重力圏からはフィクションを語ることは逃れがたいのかな、とも。しかも専門的な語彙でもって何かを語る、その所作がまた「自己確認の日常的参照点」になりうるのではないか、とも考えると完全に無限後退していくので、どうにか自己啓発的なるものとのうまい付き合い方を各々考える、という感じになるのですかね。この物言いの「からめとられてる感」はんぱないですが。というわけで大変勉強になりました。

 

 

『監獄の誕生』再読する機運がにわかに高まりました。

 

 本書は『自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究』と表裏をなすそうですが未読。いずれ読みましょう。

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

 

 

 

 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

 

 

  上で全く触れられませんでしたが、本書はピエール・ブルデューの理論的枠組みに依拠していて、その点でも、ああブルデューはこう使うのか、と勉強になりました。修論で結局使えなかったのでちゃんと勉強しなおしたいですが、僕に使う機会はあるんですかね。

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

 

 

 

自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)

自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)

 

 

*1:タイトルは適当です、念のため

*2:pp.4-5

*3:p.5

*4:p.22

*5:p.34

*6:と僕は勝手に思っている

*7:p.294

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