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消費文化と私たちの地獄―—小関隆『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』感想

イギリス1960年代-ビートルズからサッチャーへ (中公新書, 2643)

 小関隆『イギリス1960年代』を読んだんですけど、めちゃいい本だったんで、みなさんも読むといいです。以下、感想。

 本書は1960年代のイギリスで生じた「文化革命」を中心に、その時代のイギリス社会の変容と、その影響とを論じている。「ビートルズからサッチャーへ」という副題に本書の描く大きな仮説が託されている。その仮説とはすなわち、豊かな社会のなかで極めてすぐれた文化を生み出した1960年代の空気こそが、1980年代のサッチャリズム新自由主義を準備していたのだ、というもの。だから本書の射程は、イギリスのある時代にとどまるものではない。ほとんど空気のように新自由主義がグローバルに浸透している(新自由主義というレッテルがほとんど無内容なものとして流通可能なほどに)現代の在り方そのものを考える補助線になりうる、と思う。それがなにより、近過去を扱う現代史の叙述としての本書のすぐれた点である。

 さて、1960年代の「ゆたかな社会」の消費文化、道徳的な拘束が緩み始めた「許容する社会」が、いかに格差の拡大を容認し、自己責任の内面化を強要する新自由主義への道を生み出したのか。本書の提起する仮説は以下の3つである。

①大衆消費を基盤とする1960年代の文化革命の経験が、サッチャリズムの描くポピュラー・キャピタリズムの夢に惹かれる個人主義的な国民を形成した。②「許容する社会」の広がりが政治の世界でのサッチャーの栄達を可能にする条件を整えた。③「許容」を批判するモラリズムの台頭が、サッチャーへの追い風となった。*1

 本書がすぐれているのは、1960年代という時代の概観をながめつつ、無理なくこの仮説を跡付けてゆく手際にあるのだが、それについてはここでは措く。この3つの仮説のなかで、著者がとりわけ重要視するのは①の仮説である。

1960年代の消費の拡大は、人々に新しい水準の物質的快適さをもたらしただけではなかった。「自己」へのこだわりが強まるなか、「消費者」という自覚を強くもつようになった人々は、なにを買うかを自分で決め、文化革命文化的商品を通じして自分を表現した。消費とは概して個人的な行為であり、そこに自己充足や自己表現の思いが込められていた以上、消費の拡大が個人主義を強めることは避けがたかった。*2

「自己」をなによりも大切にし、消費によって自己表現や自己充足を図ろうとする1960年代の風潮には、個人の選択の自由とそれに伴う自己責任を力説して、自己利益の追求を鼓吹するサッチャリズムと通底するところがたしかにあった。サッチャーが提唱した自由な経済や小さい国家にしても、少なくとも字面のうえではベビーブーマーの支持を期待しうるものであった。したがって、音楽ジャーナリスト、チャールズ・シャー・マリがいうように、政府はロ出しするな、個々人に自分の望むことをさせよ、といったヒッピー的スローガンが「非常に滑らかに自由放任的ヤッピー[高収入を稼ぐ都市の若手エリート〕主義に翻訳される」ことは大いにありえた。*3

 1960年代はとうに過ぎ去っているし、またイギリスははるか遠い海の向こうだが、サッチャリズム的なるもの、新自由主義的なるものはこの日本列島においてもたしかに浸透し、我々を苦しめている、と認識してもよいだろう。そう考えたとき、我々が享受し、日常の支えとし、あるいは我々の魂の一部となっているものが、また同時に苦しみの一端を舗装していったものの後裔かもしれないと空想するのは、少なくともわたくしにとって非常に居心地の悪いものと感じられる。

 ダニー・ボイルが監督し2019年に公開された映画『イエスタデイ』は、ビートルズなき世界を舞台としていたが、その底にあったのは、もしビートルズの生み出したメロディが存在しないとしたら、それはものすごく悲しいことじゃないか、というある種のノスタルジーだったという気がする。しかしビートルズがいない世界は、もうすこし息苦しくない世界だったのではないか、と本書を読んで空想したりするのである。それは結局不毛な空想にすぎないけれど。

 しかし現実に、ビートルズの遺産に我々は接することができるし、我々の現実の息苦しさは変わらない。それは無論、「イギリス1960年代」のみによってもたらされたものでは無論ないし、消費文化と個人主義的志向によってのみ、サッチャリズムが招来されたわけでもない。しかし、消費文化にかかわることの政治性に無頓着でいることがいかに愚かかということを(ほとんど自明のことではあるけれども)教えてくれる本書が、広く読まれたらいいですね。

 

 本書の提起する仮説の逆説感は、ちょっとヒース『反逆の神話』みあるかもなあ。文庫版で再読しようと思ってます、せっかくだしね。

 

 

*1:p.224

*2:pp.224-5

*3:p.227