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さよなら友だち——『ファイナルファンタジーXV』感想

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 2年半かけて、ようやく『ファイナルファンタジーXV』のエンディングまでたどり着きました。もう発売から5年も経とうとしてるんすね。以下、感想。結部の演出等に触れています。

 ルシス王国の王子、ノクティスは、三人の同行者をともない、帝国との和平の象徴である結婚式へと向かっていた。そのさなか伝えられる、王都陥落の報。王国を、あるいは世界を救う、王子とその友人の旅路。

 『ファイナルファンタジー』シリーズの現時点での最新作は、広大な世界を自動車で走り回り「旅する」経験をその中核に据えた、かなり奇妙なゲームだった。とりわけPS2時代以降、さまざまな毀誉褒貶に晒されてきたシリーズではあるが、とりわけ今作は批判者の声が大きかった、という気がする。実際にプレイして、正直、ゲームとしてしんどさを感じる点はままあった。それはひとえに、このゲーム全体をデザインする思想のようなものが、ゲーム体験を統御しきれていないがゆえに生じるものだ。そして、それは制作過程での紆余曲折によってもたらされたものだろうと推察する。

 『ファイナルファンタジー』シリーズは基本的に毎回ゲームデザインを刷新し続け、前作とは別のゲーム体験を提供しようという野心に満ちている。そしてそれは『XV』でも変わらない。広大な世界を仲間と旅する、という経験のディテール——それはたとえば歩いている最中やダンジョンを探索中、戦闘中などなどにあわせた仲間たちとのおしゃべりであり、またいつのまにか友人が撮影してくれた写真であったりする——は間違いなく新鮮だったし、ゲーム体験としては唯一無二だとも思う。

 そうした「仲間との旅」の経験は極めて充実している一方で、しかしそれをオープニングからエンディングまでの「ストーリーの体験」としての経験は、制作側の混乱が透けて見えるようなちぐはぐさ、説明不足と練りこみ不足を強く感じた。「仲間との旅」の経験と、「世界救済の旅」の経験がどうにもうまく接続できていない感じがするのだ。移動手段が「自動車」から「列車」に変わることで、物語のトーンを一変させるという仕掛けは理解できるが、「自動車」に乗らなくなってからの「世界救済の旅」のせり上がりかたがあまりに唐突であったという印象はぬぐいがたい。

 シリーズ作品のなかでは、『X』や『XIII』など、しばしばゲーム体験の「一本道」ぶりを批判されるが、しかしそれらの作品は「一本道」でしか語りえない物語を設計していて、そのお話と不可分なゲーム経験として「一本道」であるしかなかったのだ。行って帰らぬ「巡礼」をモチーフにした『X』は無論のこと、自由と運命とを主題とする『XIII』は、経験としての選択肢のなさこそが最終盤で効いてくる構成になっていた。対して『XV』は、そうしたゲーム経験を基礎づける思想のようなものを欠いている、という気がするのだ。

 しかし最後の最後で、(世界救済の旅が究極的に前景化してラストの決着を迎えるにもかかわらず)スタッフロールのなかで我々が目にするものはむしろ「仲間との旅」の経験であって、全体としてのゲーム経験のちぐはぐさなどほとんど吹き飛ばしてしまう、一点突破の力技なのであった。終盤、つらくくるしい(ゲーム経験としても極めて貧しい)世界救済の旅に従事していた我々は、実はそんな巨大な主題などほとんど意味をなさないような、一回きりの経験をしていたのだとこのゲームは教える。

 それは、「ひとつの思想」でゲームを首尾一貫したものにすることに失敗したという自覚がもたらした、ほとんど最後のあがきだったのかもしれない。しかし、制作者たちが長い時間と労力をかけそのディテールを積み上げていった「仲間との旅」の経験に信を置いたこと、それはやっぱり「たった一つの冴えたやりかた」だったのかもしれない。

 ダウンロードコンテンツの配信は中途で絶たれ、語られるかもしれなかった真の物語をゲームというかたちでプレイすることはどうやらかなわないらしい。それでも、この『ファイナルファンタジーXV』の価値はたいして減じないだろう。プレイを終え、親しい友人と別れた気持ちになるようなゲームは稀有なんだからさ。