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そこに確かに俺はいた――『止められるか、俺たちを』感想

止められるか、俺たちを

 『止められるか、俺たちを』をみました。何者にもなれない我々の時代の青春映画として、めちゃくちゃよかったのではとおもいます。以下感想。

  1969年。混沌としていた世界が、なにか大きな力によって飼い慣らされてゆこうとする時代。独立プロダクションとして、そうした世界そのものと対峙した男たち。その男たち=「俺たち」のなかに、彼女はいた。俺たちが俺たちであった、その薄汚れた、しかし同時に輝いていた日々のきらめき。

 ピンク映画という戦場で、前衛として屹立した若松プロの熱い日々を、女助監督を主役に据えて語る。芸術と興行、あるいは芸術と政治、そうしたものどもが葛藤するなかで、なんとかやりたいことをやろうともがいた男たち。

 そうした日々へのある種の憧憬と敬慕が焼き付いていて、ある種のノスタルジックな青春映画としてとても楽しいのだが、終盤から結末に至る展開は、そうした楽しい手触りを持ち帰らせてはくれない。女を捨て、「俺たち」であろうともがきながら、もって生まれた女性の身体がそれを許さない。女を捨てたと豪語しながら、決して捨てきれなかった女性の残余。それが彼女を「俺たち」の外側へ、あるいは此岸の外側へと放逐する。そして焼き付く、もはや「俺たち」は俺たちではいられないのだ、そうした寂寞感。作中で幾度も、「俺たち」の外側へと抜け出ていく人々の背中が映しだされた。「俺たち」ではなく「俺」として、各々の道をゆく「俺」たちを。

 そして最後にカメラは切り取る。もはや「俺たち」ではありえなくなった後に、俺としてあろうとする男の背中を。そうして「俺」たちは行かねばならぬのだ、ただ「俺たち」としての記憶を携えた、ただ一人の「俺」として。