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形見で親父を踏みにじれ――『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』感想

【映画パンフレット】バッド・ジーニアス 危険な天才たち

 『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』をみました。以下感想。

  タイ。そこでもまた、我々のよく知る受験戦争が戦われていた。我々がよく知るように、その戦争は決して平等に人間を選抜したりしない。その人間の能力によって、進むべき道は選び取らされる。その能力とは何か。我々はそれを「学力」だと信じている――信じているかのように振る舞っている。しかし、それはある場所では「金銭」によって容易く代替される。圧倒的な「学力」をもつ少女は確信する。私の学力を金銭に変えて、何が悪いのだ、と。

 タイを舞台に超絶能力をもつ少女と、彼女に目をつけて日々の試験を乗り切るお嬢ちゃんとおぼっちゃんどもが、留学生選抜のための試験でのカンニングを画策する。もうこの天才少女、馬鹿な金持ちのガキという設定から我々が察しなければならないのは、これは極めて記号的なキャラクターによって成り立つお話だということである。

 遠い異国で作られた映画のなかの記号は、意外や意外、我々が馴染んだものと極めて近しい感触をもつ。それはおそらく、学校空間という西洋近代的な場の属性が、我々の知るそれとさして隔たってはいないことに拠るのではと思うのだけど、それによってこの映画は奇妙な普遍性を宿している。

 一方で、そこで提示される善と悪との相克、そしてあまりに容易く善の側に賭け金が置かれる幕引きに違和感を覚えないといえば嘘になる。そのような「正しさ」を最早信じれらなくなった我々を悲観すべきなのかもしれないが、それでもなお、そうした「正しさ」の快に身を委ねることは、この画面のなかで生じている事態――金持ちどもは金で容易く世界をねじ伏せられるという真理――を肯定はせずとも否定はしない、という仕方で温存してしまうという方向に働くのではないかという気がする。

 とはいえ、それがこの映画の楽しさをいささかでも毀損するかといえばそんなことはまったくなく、自身の能力、そして咄嗟の機転によって顔のないシステムを出し抜こうとする展開は王道少年漫画の風格があり、最後の最後で発動されるスタンド――おそらく村上春樹似の父親(ほんとに似てるんですよ)が娘のために身を切って買ったあのピアノが、父親の意図を全く裏切る形で最高に役に立つ場面の馬鹿馬鹿しさと熱さ!あの場面においてのみ、あの親子の関係性は善悪の彼岸に立ち、正しいも正しくないも超越した何事かが起こっていたのであり、こうして押しつけがましい価値など既に当然のごとく裏切られていたことを我々は知り、微かに安堵するのであった。