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幸福の擁護——『小林さんちのメイドラゴン』感想

小林さんちのメイドラゴン 7 [Blu-ray]

 このところ『小林さんちのメイドラゴン』をみていました。以下感想。

  東京近郊。東京でSEとして日夜働く女性、小林。彼女の周りにうごめく異界から来たドラゴンたち。しかしそれでも、様々な出来事をそのうちに含みつつも、続いていくありきたりな日常。

 クール教信者による原作を、京都アニメーションがアニメ化。監督は『らき☆すた』『氷菓』の武本康弘門脇未来のキャラデザは記号的でキュート。丸みをおびたデザインはセクシャルな雰囲気を脱臼させ、作中の出来事からも性的な接触は深刻な事態としては処理されず、あくまでコメディとして処理される。

 異なる世界からの来訪者、というシチュエーションの先例を挙げていけば『うる星やつら』やら『ドラえもん』やらほとんど枚挙にいとまがなく、それらとの差分を指摘することがこの作品を語ることに資するところもあるのだろう。しかしそれはここでは避けよう。ここで導入したい文脈とはすなわち、京都アニメーションが『涼宮ハルヒの憂鬱』以来反復し変奏してきた「日常」と「非日常」の主題系である。誤解を恐れず言うのなら、この『小林さんちのメイドラゴン』はほとんど『涼宮ハルヒの憂鬱』のおよそ10年越しの反復であるとまで言いうるのである。

 宇宙人・未来人・超能力者との出会いを待ち望んだ涼宮ハルヒは、この異世界からの来訪者にあふれた日常と相対したらどう感じるだろうか。少なくとも、小林さんのようになしくずし的に受け入れて、自身の日常の一部とすることはできないだろう。小林さんは突如現れた同居人たちを多少の葛藤の末受け入れ、なおかつ、彼女自身はそれでもありふれた一労働者としての日常を継続してゆく。そこには世界の命運をかけた冒険や、悲劇の予感を漂わす恋愛などが入り込む余地はない。涼宮ハルヒが、彼女が知らぬ間に世界の命運をかけたゲームの中心に置かれているのと対照をなすといっていい。

 奇妙な同居人が増えたことくらいでは揺らがない、日常的なるものの強固さ――あるいは身軽に広い住居に引っ越してしまえる経済的な余裕がその基盤にあることは疑いないが、ここでは措く——への信頼。日常を日常として「ずっと続いていくと信じる」ことができるということ。それは学生という身分から遠く離れて、おおよそ何処にも行くことのできない、逆向きの電車に乗ることのできない我々が持ちうる、最良の強靭さなのかもしれない。

 「日常/非日常」あるいは「特別さ」。それは京都アニメーションの仕事の中で、学校という空間と密接な共犯関係をもって語られてきた主題でもあった。涼宮ハルヒがなんの非日常的なこともないものとして眺めてきた日常は、キョンないし我々にとっては非日常にあふれたものだった。非日常と日常の曖昧な縁。

 あるいは『けいおん!』を想起してもいい。なんの変哲もない放課後の日常に強烈な意味を与えてしまう部活という時間。ここで「非日常」はSF的なガジェットから解き放たれ、日々の些細な戯れこそが「日常」を「非日常」に変貌させる装置になる。フィクショナルな道具立てにしろ、日常のディテールにしろ、無論、それ自体は学校空間と必然的な結びつきをもつわけではない。しかし、彼女ら・彼らの物語を物語として駆動させる要因の一つは、学校空間が必然的に彼らに課す、時間制限であったようにも思うのだ。彼らの「非日常」は終わりがあるからこそまさに青春として生きられるのだ。

 一方で、労働者たる小林さんにも「終わり」はある。それは長命なドラゴンとの対比でほのかに意識されもする。しかしその終わりの手触りは、学校空間で明確なかたちをもって感受されるそれとはまったく異質であるはずだ。だからこそ、彼女は奇妙な同居人との日常を「ずっと続いていく」と信じられるのだ。

 言うまでもなく「ずっと続いていく」ことなど嘘である。あえて我々が現実で遭遇した出来事のことに触れるまでもない。ただだからといって、「ずっと続いていく」ことを信じること、そうした幸福の擁護をやめてはならないのだ。この作品が作られた幸福と幸運とに、いまはただ感謝したいと思う。

 

幸福の擁護

幸福の擁護

  • 作者:今江 祥智
  • 発売日: 1996/06/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

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 この『小林さんちのメイドラゴン』もまた、「ちがう歩幅で一緒に歩く」ことの一つの実践であったことはいうまでもありません。『リズと青い鳥』がそうであったようにね。

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