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シャンバラに、祈りを託す―『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』感想

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 『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』見ました。まさか公開初日に見に行くほど俺って『PSYCHO-PASS サイコパス』のこと好きなのか...?とか思いつつも、見に行くあたりやっぱり好きなんでしょう。くやしい。以下で簡単に考察というか感想を。核心に触れるネタバレがあると思うのでご留意を。

 「世界」という舞台は、確かに新たな道を拓いてみせた

 「舞台は世界へ―」。それが『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』の第一報のヴィジュアルとともに公開されたキャッチコピーだった。いやいや、風呂敷広げすぎでは...なんて思ったりもしたけれど、結果としてこれはいい方向に世界が広がったという印象を僕は持ちました。欲をいうなら、作中で「世界」がシビュラシステムに支配された「日本」と鮮明に衝突してほしかった、というのはあるんですが、作中で明示されていないことが逆に「語りたさ」を喚起するようなところがあるような気もして。「世界」と「日本」について風呂敷を広げたことが、語る欲望をいつも以上に喚起していると僕は感じるわけです。その点、「舞台は世界へ―」は間違いなく成功だったと思います。

 その劇場版の物語は、2期の延長というよりは1期とより直接的に結びついていると僕は感じた。

『PSYCHO-PASS サイコパス』 システムとどう対峙するのか? - 宇宙、日本、練馬

 

 1期の結末において、あくまで法=システムの内部で正義を目指すことを選びとった常守朱と、対照的にシステムの外部へと逸脱することで自身の正義を遂行した狡噛慎也。ふたつの正義の可能性が再び相見えるとき、正義はいかなる帰結へと導かれるのか。

 そうした問いを立てたとき、一つの回答は徹底的な対立だろうと思う。法に対する姿勢で決定的な断絶がある以上、ふたりの正義は互いに否定し合い飲み込まんとする可能性はあるんじゃないか。しかし、この道を二人は選びとらなかった。互いに協力し、互いの正義をなすという道こそが、劇場版の物語においては選ばれたわけだ。

 生ぬるいと言うべきか、賢明と言うべきか。いやむしろ、システムにとって外部であるSEAUn(シーアン=東南アジア連合)における邂逅だからこそ、それがあり得たのかもしれないという意味で、またしても「世界」という舞台が効果的に機能したとみるべきか。

 

「選択の自由」はシャンバラへの道なのか...

 「世界」を舞台にした『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』は、結局のところシビュラシステムがその効果圏域を拡大しようとする物語だったと要約できるんじゃなかろうか。死と暴力がむき出しで猛威を振るう無秩序=システムの外部に生きる人間であるニコラス・ウォン大佐が求める秩序=システムを与えることによって、システムの外部は微妙な形でシステムの内部に組み込まれることになった。舞台となるシーアンの首都シャンバラフロートはその意味で、システムの内部でもあり、しかしその地理的にもシステムの運用が完全にはなされていないという意味ではどうしようもなく外部でもある。シャンバラフロートはどうみても犯罪を上手く処理できていないことが画面に映されるし、そもそも恣意的な*1など、あくまで不完全ではある。しかし不完全ながらも、秩序自体は外部と比較にならないぐらい保たれている。そんなキメラ的両義性を、シャンバラフロートは帯びている。

 このシステムの外部であり内部でもあるシャンバラフロートを舞台にとることによって、『PSYCHO-PASS サイコパス』に新たな地平が開かれた。それは、「シビュラがないかもしれない」という可能性、そしてそれ無しでも地と暴力でなく秩序が生まれるかもしれないという可能性、そんな可能性を拓く地平である。シャンバラフロートによって、完全なシビュラシステムの檻は必然的なものではなく、あくまで数あるうちから選びとらされた可能性のひとつに過ぎないものに貶められた。この「あり得たかもしれない可能性」を示したことが劇場版の最大の成果であり、その「ありえたかもしれない可能性」こそ、クライマックスにおいて常守がシビュラの対決のなかで守ろうとしたものに他ならないのだと僕は思う。

 まだシビュラの檻に囚われてはいない世界。その世界に住む人々を勝手に檻の中に放り込むことはあってはならない。もしもシステムの檻の中に入ることが当面の正義にかなうことだとしても、それは檻に入る人々の手で選び取られなければならない。そんな願いこそ、常守を突き動かしたものに他ならないんじゃなかろうか。

 未来を選びとれるなら、自分の手で、自分の意志で選びとってほしい。その願いを常守が抱いたのは他でもない、自分自身がはじめから檻の中に生まれ、選択の余地すらなかったからだろう。選ぶと選ばざるとに関わらず、檻の中で生きるしかないという宿命。その中で生きていたからこそ、システムをはるかに逸脱してもなお自身の意志で行動を選び取り続けた槙島聖護の生は輝きを放っているのだし、システムに絡みとられながらも同じように自身の意志をあくまで貫く狡噛のそれも多くの人を引き付けるのだろう。そんな生の可能性に触れてなお、システムの中で生きざるを得ない常守は、人の意志を、選択の自由を信じずにはいられなかった。

 そんな願いと祈りの果てに、はたして真のシャンバラがあるのか、それは誰にもわからない。選挙戦が行われているとエピローグで触れられたけど、そんなものが始まりの始まりにすぎないなんてことは、悲しいかなイラク戦争後の混乱を知ってしまっている私たちにはわかりすぎるほどわかってしまう。それでも。それでも22世紀という未来に生きるシーアンの人々は、システムの支配でも無軌道な暴力でもない第三の道を、よりよい明日を選びとることができるかもしれない。そんな祈りを託して、終わりの知れない倦怠の中に帰って行ったであろう常守の姿は、まさしく今を生きる私たちの映し絵なんじゃないか。劇場版、結構好きかも。

 

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【作品情報】

‣2014年/日本

‣監督:塩谷直義

‣脚本:虚淵玄深見真

作画監督恩田尚之

‣出演

 

 

 

 

蛇足も蛇足

 常守にとってのシビュラシステムが、「(他にありえたかもしれないにも関わらず)上の世代によって選びとられたという偶然によって、必然的なものとして生きざるを得なくなった檻」という相貌を帯びたのがこの劇場版だと思うんですが、この見立てでいくとテキトーなことをいっぱい語れそうな気がしますね。シビュラ=日本国憲法説とかね。くだらない戯言の域をでない思い付きですが、そんなことが頭をよぎったりよぎらなかったり。

 

 

*1:そもそもシビュラシステム自体が恣意性の塊ではあるのだけれども、ここではある一定の団体に所属する人間の利益をあまりにも露骨かつ不当に守るという設定が意図的になされている、という点において恣意的という感じです、はい。