世間はお盆だったり終戦記念日だったりコミックマーケットだったりするようですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。先日のコミケ1日目、ふると@kei_furutoさんのサークル「余白の楽書」で無料配布していたペーパーに佐藤卓己『増補 八月十五日の神話: 終戦記念日のメディア学』の紹介のようなものを寄稿させていただいたんですが、ふるとさんのご厚意でブログに乗っけてもいいよという許可をいただけたので、訂正加筆して転載しようと思います。丁度タイミングもタイミングなことだし。
終戦記念日という「創られた伝統」
プレイステーションの名作ゲーム『ぼくのなつやすみ』の中で、主人公のボクくんが次のような問いを発する。「なんで終戦記念日とお盆は重なってるの?」。正確な文言は忘れてしまったが、おおよそそのようなものだった。確認のためにPSP版を再プレイしてたんですが8月15日までたどり着かず。月夜野は俺には狭すぎました(飽きた)。もしかしたら続編『ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇』のほうだったかも。
作中でその問いに明確な答えが与えられる場面はないのだが、この素朴な問いが大きな射程をもつものであることを、当時の僕は知る由もなかった。
佐藤卓己『八月十五日の神話』は、八月十五日を敗戦の日とする「神話」がいかに形成されていたのか、それを実証的に明らかにしてみせる。その中で、お盆と終戦記念日の奇妙な一致という問いにも回答が与えられる。それをここに直接書くはのあんまり芸がないと思うので、さしあたっては戦前と戦後の連続性が問題になっている、ということを記すにとどめよう*1。詳しくは本書「第2章 玉音放送の古層」4節をお読みになってください。
八月十五日を「終戦記念日」とする思考は、おそらく多くの人にとって、疑う機会すらないほど当たり前のものとして受け入れられているのではなかろうか。しかしそれが今の私たちにとっては自明のものであっても、歴史のなかで時間をかけて創り上げられてきたものである、というものは意外に少なくない。国民国家や民族などがその代表例であろうが、そうした「創られた伝統」を暴き立てる研究は、歴史学をはじめとする人文・社会科学において20年ほど前から大きく流行しており、ひとつのトレンドをなしているとさえいえるんじゃなかろうか 。
- 作者: エリックホブズボウム,テレンスレンジャー,Eric Hobsbawm,Terence Ranger,前川啓治,梶原景昭
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1992/06
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日本において国民国家を自明視する言説を批判する。所謂「国民国家論」の端緒となったのは西川長男の著作みたいです。
国家や民族は、様々な研究の蓄積によって現在ではかなりの程度相対化されたように思える。一方、「八月十五日の神話」はどうだろうか。それをあくまでひとつの「神話」、物語にすぎないものとみる態度は、私たちのなかには未だないように思われる。
ポツダム宣言を受諾した8月14日でも降伏文書に調印した9月2日でもなく、なぜ玉音放送の8月15日が敗戦=終戦の日として広く認識されるに至ったのか。「八月十五日の神話」の形成過程を知ることは、その特権性を揺らがす可能性を秘めている。
先日公開された映画『日本のいちばん長い日』も、あたかも八月十五日にすべてが終わったかのような描写がなされていて、「八月十五日の神話」が再生産されてゆくのを目の当たりにした感じがしました。そんな現在の状況だからこそ、切実に本書は読まれるべきである、とも。
八月十五日に戦争に思いをはせ、そうしたものを踏まえたうえで今を生きる人間の責任だとか、平和だとかについて考えや議論を深める機会がつくられることには、もちろん意味があると思う。しかし問題は、「八月十五日」にすべてを帰着させ、他のもろもろのことが見えなくなることなのだと思う。1945年8月15日の正午以降も、戦闘は行われ、人は死んだという事実から目をそらして本当によいのか。
戦争を記憶してゆく方途は、八月十五日というある一点に集約されるべきではなく、別様にもありうるはずである。そのことを確認するためにも、「八月十五日の神話」について思いめぐらす意味は大きい、と僕は思います。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
- 作者: ベネディクト・アンダーソン,白石隆白石さや
- 出版社/メーカー: 書籍工房早山
- 発売日: 2007/07/31
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