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リアルとヴァーチャルのだらしない境界――『ソードアート・オンライン』感想

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  ここしばらくNetflixで『ソードアート・オンライン』をみていて、先日1期最終話まで視聴したので、感想を書き留めておきます。

  好きなもの、心惹かれたものについて語るのは容易い。その語りが、適切な主題、首尾一貫した文体、その他諸々の条件を備えてある種の批評として読まれることに耐えるかはまったく別の問題だが、少なくとも心惹かれるものについては、語るべきこと、語らなければいけないこと、語りたいことが次から次へと湧いて出てくる。それをひとつのテクストとして成形するためには努力と訓練が必要かもしれないが、少なくとも湧き上がる連想を次々口にし、あるいは文字を打つという形で物質化するのは楽しいことだ。

 翻って、あまり好きではないもの、心惹かれないものについて語ることには、往々にして困難が伴う。語るべきことどもは、心惹かれたものについて語ろうとするときほどに湧いてはこないし、湧いてくるにせよ、それがはたして物質化に耐えうるものなのか、物質化したとしてなんの意味があるのか、そういう疑念は付きまとう。

 これは単なる僕の素朴な実感なのだけれど、たとえば村上春樹という無比の書き手でさえ、あまり好きではないのだろうなという対象――具体的にはウィントン・マルサリス――について語ったテクストは、はっきりいって失敗している、と感じる。大事なことを取り逃している、と思う。村上は大学を出てジャズ喫茶をやってたぐらいの人間だから、僕なんか比較にならないくらいジャズというジャンルにどっぷりつかっているわけで、そんな鑑賞歴の差は僕が村上のジャズの趣味について何を言っても無駄というものなのだろうけど、村上はウィントン・マルサリスを不当に低く評価している、と感じざるを得ない。村上はまさにジャズというジャンルが日々進化し、創造的破壊を繰り返していく過程をリアルタイムに追ってきた人間だからこそ、そうした創造的な破壊というよりは、むしろ過去の遺産を忠実に再構成していくようなウィントン・マルサリスの仕事の手触りがジャズの在り方として受け入れがたいのではないか、という気がするのだけど、やはりそれはそれとして、「ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?」という問い自体がナンセンスなのだ。

 しかもさらに悪いことに、村上のテクストは広く読まれる運命を背負わされているがゆえに、この村上の「ウィントン・マルサリス=退屈」という「趣味」は無数のエピゴーネンを生み出してゆく。それはamazonのレビューなどにしばしば顕れ、自身のエピゴーネンぶりなど省みぬ厚顔無恥ぶりで村上の問いを反復し去っていく。こうした無数の村上主義者たちの村上主義者らしい活動によって、村上の趣味は陳腐化し差異化卓越化のゲームのうちで陳腐化する運命を免れない。

 話がそれすぎた。このような決して短くはない枕を必要としたのは、僕があまり心を惹かれなかった作品についてどのように語ったらよいのか、その仕方をいまだ知らないからであり、このような前置きがその困難さをまさに表しているわけです。心惹かれなかった理由を語ることは、すなわち自身のなかにあるある種の規範を言語化し、その基準に照らして作品を語るというなんの面白みのない規範批評的な振る舞いでしかありえないのではないか、そのような語りに一片の意味もないのではないか、とも思うのだけれど、少なくとも近い将来他者となったこの自分が、かつての過去に自身のうちにあった偏狭な規範を確認することができうる、という意味では欠片ほどの意味があろうと思うわけです。

 というわけで、僕がアニメ版『SAO』に心惹かれなかった理由はいくつもあるのだけれど、もっともフェイタルだったのは現実とゲーム、リアルとヴァーチャルの境界が極めてルーズであり、ゆえにリアルとヴァーチャルがだらしなく連続しているように感じられた点に尽きるのではないか、と思う。ゲームをプレイする、という行為を想像すると、私たちの身体はたしかにこの現実世界にあるわけだけど、意識はディスプレイのむこう側に転移し、そのゲームにおけるアバターに感情移入し操作を行う。その没入がゲームをプレイするという行為の一端であることは疑いがない。

 一方で、私たちは永遠にはゲームをプレイし続けることはできない。食事・睡眠などもろもろの現実の制約が、私たちをヴァーチャルへの没入からリアルへと引き戻す。そのさい、私たちはいつも以上に現実にいま・ここを生きるわたしを意識しはしないだろうか。ゲームのなかで自由自在にアバターを操作していたわたしは、どうしようもなく現実という物質的基盤によって制約されている。ゲームにおける全能感は、現実における不能感とセットで経験されてはいないだろうか。僕はその不能感こそ、ゲームという経験の核心ではないかと思っている。ゲームに没入したあとに否応なしに襲ってくる虚しさは、没入の度合いが高ければ高いほどに強烈ではないか。その経験からリアルとヴァーチャルの境界について考えるならば、リアルとヴァーチャルはたしかに連続しているのだが、その連続性ゆえにむしろ境界は極めて強固に感受されるのではないか。

 こうした僕のなかに無意識に形成されていた規範が、『SAO』の設定や物語と不協和をきたした。そこではリアルとヴァーチャルはだらしなく連続していて、ゲームという経験の含みこむ虚しさのようなものがきれいに取り払われているように感じられたから。しかしぼくのこの規範など時代遅れのものでしかないのかもしれず、リアルとヴァーチャルの境界はもうすでにほとんどだらしないものになっているのかもしれないのだし、だからこそ『SAO』は多くの人間に何事かを訴えかけることができたのかもしれないのだけれど、それは僕には知りようのないことだ。

 

 

 

意味がなければスイングはない (文春文庫)

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【作品情報】

‣2012年

‣監督:伊藤智彦

‣原作: 川原礫

‣シリーズ構成・脚本:

‣キャラクター原案:abec

‣キャラクターデザイン:足立慎吾

美術監督:竹田悠介、長島孝幸

‣音楽:梶浦由記

‣アニメーション制作:A-1 Pictures