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消え去った都市のなごり——小川哲『地図と拳』感想

地図と拳 (集英社文芸単行本)

 小川哲『地図と拳』を読んでいました。以下、感想。

世界の未来は、地図と拳によって決まっているという*1

 1899年、中国東北部満州。大学生の細川は、語学の知識を買われ、ロシアが勢力を拡大しつつある満州に探りをいれようとする日本軍の密偵に帯同していた。この細面で眼鏡をかけた青年は、その後、南満州鉄道株式会社の一員として、その満州でつかのま白昼夢をみることになる。タブラ・ラサに、理想の都市を築き上げること。世界創作の手法としての「地図」作成と、そしてそれにまとわりつく暴力たる「拳」。誰も知らない歴史の影を、我々はたどることになる。

 『ゲームの王国』、『嘘と聖典』の小川哲の最新作は、満州を舞台に、日中露それぞれ様々なバックボーンをもつものたちが入り乱れ、架空の都市「李家鎮」——のち「仙桃城」を主要な舞台として偽史的な時空を立ち上げる。およそ50年のあいだに栄華を極めそして消え去ってしまう「仙桃城」に、マコンドの影をみないわけにはいかない。『ゲームの王国』でポルポト政権下のカンボジアを舞台にマジック・リアリズムを自家薬籠中の物としていることを示してみせた小川は、この作品でかのガブリエル・ガルシア=マルケスによる世界文学史上の金字塔『百年の孤独』を自分自身のものにしようと大胆不敵な挑戦をしてみせた。

 義和団事件の折、修行の末『西遊記』の孫悟空の力を得た千里眼の男、「孫悟空」をめぐる挿話など、リアリズムのなかでしかし奇妙な浮遊感をもっていて、まさにこの作家の器用さを大いに感じるところである。特に序盤において、この偽史的時空がどのように広がりをみせるか想像もつかないので、リアリズムのなかの異物が作品世界にどのように化学変化をもたらすのか、強烈にわくわくさせられる。

 とはいえ、『ゲームの王国』ではカンボジアという(少なくともわたくしにとって)新奇な舞台設定がなされたがゆえに持続した緊張感は、この『地図と拳』ではやや弱いか、という気はする。巻末の参考文献からは著者の熱心な取材ぶりがうかがえるが、しかしその中にはわたくしすら読んだことのあるポピュラーな書籍がいくつも含まれていて、そのうえその参照箇所がけっこうあからさまだったりするのだ。細川が立ち上げた「戦争構造学研究所」とその内実は、参考文献に挙げられている猪瀬直樹『昭和十六年夏の敗戦』を読んだものなら明らかに「総力戦研究所」をモデルにしているとわかってしまう。小川がいくら手練れのマジシャンだとしても、種がみえてしまえばその魔術の魅力は減退してしまう。

 『ゲームの王国』でもそうだったように、この『地図と拳』でも作品世界の無法な広がりは禁欲されていて、それがある種の物足りなさを感じさせるのも否めない。もっとおもしろくなりそうな気がする、もっと想像もできないことが起こりそうな気がする、という期待が、必ずしも十全に成就しないのだ。しかし、それがむしろこの『地図と拳』ではポジティブにはたらいているともいえる。架空の都市を主役に据え、その消滅―—あるいは再生をもって閉じられるこの小説には、まさに「成就することのなかったなにか」の手触りをわたしたちに手渡すことがその役目かもしれない、とも思うからだ。

こうして地図にこだわるのは、僕が国家とはすなわち地図であると考えているからです。国家とは法であり、為政者であり、国民の総体であり、理想や理念であり、歴史や文化でもあります。ですがどれも抽象的なもので、本来形のないものです。その国家が、唯一形となって現れるのは、地図が記された時です。*2

 細川が語るこの地図の思想とはまったく異なる次元での地図=小説の可能性。それを書き込んだラストが、わたくしは嫌いではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:p.452

*2:pp.338-9