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人の造りし絶望と奇跡――『ブレードランナー 2049』感想

Blade Runner 2049

 『ブレードランナー 2049』をみました。度肝を抜かれた。以下感想。

  2049年。人はその手で人の似姿、レプリカントを作り出し、地球の外へとその手を伸ばしていた。一方、地球の景色は、黄昏時の色彩を帯びている。30年前よりも、はるかに強烈に。旧式のレプリカントは役目を終え、逃げ出したのものも新型に駆逐されつつあった。レプリカントを追うレプリカントブレードランナーのKは、その手で「解任」したレプリカントが奇妙な痕跡を残していることに気付く。本来、子をなすことができないはずのレプリカントが、子供を産み落としたという可能性。それが彼の運命を導く。

 『ブレードランナー』の30年後を描くこの『2049』は、その続編として、語られるべきことを、極めて美しい仕方で、極めてアクチュアルに語ってみせているように思う。30年後の世界は、間違いなく「あの」世界の30年後なのだろうと信じるに足る説得性をもつ。『ブレードランナー』でみられた猥雑な雰囲気は後退し、より人工的でうら寂しい景色が印象に残る。街の雑踏をカメラに写しても、そこには30年前にあった活気や熱量はオミットされているように感じられる。それが、30年のあいだに生じた変化を否応なしに想起させ、人類が――少なくとも地球上に生きる人類が、破局により近づきつつあることを予感させる。

 そのような世界で生きるKは、捜査の合間に虚構に耽溺する。レプリカントを生み出すウォレス社の端末上の架空の人格に、一人静かに愛を向ける。この奇妙な、しかし現代においてもありふれているともいえる趣味によって、『ブレードランナー』における人間とレプリカントという対立軸が、人間、レプリカント、架空の人格という三者関係へとアップデートされ、レプリカントが人の手になる被造物というだけではなく、被造物でありながらもさらに被造物を愛する、という重層的な存在として立ち現れる。『ブレードランナー』がそうであったように、『2049』もまた、なによりレプリカントの映画だとすれば、このことは極めて強い意味を持つ。

 レプリカントは人の手になる被造物であり、レプリカント自身がレプリカントを生み出すことはできない(とされる)。これが人間とレプリカントを決定的に分ける線であるからこそ、レプリカントの出産という事実を知った警部補は恐れおののく。その意味で「レプリカントの子」は人類にとって他者との境界を破壊する絶望の徴であるのだが、一方で、レプリカントを酷使し人類史を推進しようとするウォレス社にとっては、まさしく希望そのものでもある。こうして「レプリカントの子」は絶望と希望をそのうちに抱え込み、そしてまた、レプリカント自身がその希望の意味を読み替え、「奇跡」として世界に刻み付けようとする。 

 Kはその奇跡を追跡者として追い、やがてはその奇跡が自分自身だと確信し、結末に至って、奇跡の残り滓であるのだと知る。奇跡とはKにとって、あるいはあらゆるレプリカントにとって、結局は彼岸の出来事でしかない。それは『ブレードランナー』が、あるいはあらゆるフィクションが、私たちにとって彼岸の出来事でしかないこと、その似姿ではなかろうか。「奇跡」とは、彼岸の出来事にすぎないものだが、同時にそのいくらかが私たちのうちに流れ込む。だからこそKは至るべき場所へたどり着き、その「奇跡」と出会うべき人へとつないでゆく。

 Kは、あらゆる過去のフィクションを参照しつつ語られるフィクションとその語り手の暗喩であり、『2049』は、奇跡のごとき輝きを放つ過去の遺産を未来へと投げ返す、偉大な物語だったと、そう思う。

 

 

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諸々のモチーフがめっちゃ押井守っぽいというか、『イノセンス』っぽくて、ブレードランナーのオマージュのそのまたオマージュみたいな仕方が、こう、すごいいい。

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【作品情報】

‣2017年/アメリカ

‣監督: ドゥニ・ヴィルヌーヴ

‣脚本:ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン

‣出演