小谷野敦が好意的に言及してたんで三遊亭円丈『御乱心―落語協会分裂と、円生とその弟子たち』を読んだんですが、これがなかなかおもしろかった。『師匠、御乱心!』の題で文庫化されてるようですが、ぼくが読んだのは単行本のほうなので、この記事のタイトルもそれにあわせておく。どうも文庫版で結構加筆があるようで、ちょっと気になる。
この本が題材とするのは、1978年におこった所謂落語協会分裂騒動で、その分裂騒動の中心人物である三遊亭圓生の弟子が書いた、暴露本的な雰囲気をまとっている。落語家たちが実名で登場して繰り広げられるのは、狭い世界で戦われるさながら仁義なき戦いであり、これがこうした語りにのってテクストになったことは、関係者の心胆を寒からしめたのではないかと推測される。
とりわけ印象的なのは、兄弟子である5代目三遊亭円楽への筆誅ともいうべき攻撃で、師匠のことなどなんとも思わず、他者を平然と利用し、つねにマスコミ受けを狙って立ち回るマキャヴェリストぶりは、笑点の司会での好々爺然としたたたずまいしか知らぬわたくしに大きな衝撃を与えました。もっとも、これは「円楽ぎらい」の語り手から眺められた像であるのだから、それをうのみにするのはちょっと短絡的だろう、と思うのだけど。
しかし、落語協会分裂騒動から40年以上の時が経ち、関係者も多くが鬼籍に入ってしまったいま、そうした暴露本的なおもしろさは目減りしてしまっているのだろう。しかしそれでもなお、本書は圧倒的におもしろいのである。ここに、無数の物語をその身に身体化した、落語家という職業の強みを感じるし、そうした物語の型に自身の人生を乗せて語ってしまえる、ある種の私小説家ぶりなどが、もしかしたら小谷野敦という書き手に何か訴えることがあったのかもしれない。
本書のモチーフは明らかに、三遊亭圓生という偉大過ぎる師をもった「息子」による「父殺し」の試みであり、また同時に、どちらが正嫡であるかを証したてようとする「兄殺し」の試みでもあるのだろう。この偉大な師が愛していたのは、わたくしという実存ではなく、わたくしの芸の才にすぎぬ。だから、わたくしが一人の人間として立ち現れたとき、師は異様なほどの残酷さでもってわたくしたる自我を殺そうとするのである。
本書は何より、語ること、書くことをもって、自身の過去を清算し、現在という地を固めようとする試みとして書かれたのではないか。その異様な迫力と、しかしそれをあたかも喜劇のように語ってみせようとする落語家の気概とが、40年以上の時を経てなお、このテクストを見事に生き延びさせたのだ。