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理想と探偵と——谷川嘉浩『鶴見俊輔の言葉と倫理 想像力、大衆文化、プラグマティズム』感想

鶴見俊輔の言葉と倫理: 想像力、大衆文化、プラグマティズム

 谷川嘉浩『鶴見俊輔の言葉と倫理』を読みました。以下、感想。

 本書は、鶴見俊輔の哲学を読み解き、批判的に継承することを目指す。著者の専門はアメリカ哲学で、博士論文ではデューイを中心に取り上げたようだ。これまで鶴見俊輔を論じた文章は鶴見とじかに接したり、薫陶を受けた書き手によるものが多かったが、著者は鶴見と直接会ったことはなく、それが本書の意義の一つだと述べている。

 1990年生まれの著者とわたくしは同世代で、だからときどき引用されるサブカルチャーへの言及が体感的に「わかる」のが奇妙におもしろかった。まさか鶴見俊輔論読んでて『交響詩篇エウレカセブン』でてくるとは思わないじゃん。読んでいるうちはやや唐突感あったけれど、こうした身近なフィクションへの目くばせはある意味で鶴見へのリスペクトなのかも、とも読み終えた今は思う。

 さて、本書は、「鶴見俊輔は、なぜ作文が知的独立性の問題だと考えたのか」のような問いを章タイトルにした7章立てになっていて、それぞれ独立性が高い。特に面白く読んだのは、「第三章 鶴見俊輔は、なぜ文章教室で理想を書き留めることについて語ったのか」。

 ここでは鶴見が講師をつとめた文章教室での実践から、「理想」と「現実」のギャップを前に、いかなる構えをとっていたか…というような倫理を引き出しているが、その中で大衆文化論・漫画論が参照される。鶴見が大衆文化のアイコンのなかでとりわけ愛着を持っていたのが、「探偵」と「忍者」だという。

鶴見の愛した大衆文化の中の「探偵」は、権威や秩序をかいくぐるユーモラスで野性的な狡知を象徴するものであり、この知性は学校教育によって研ぎ澄まされたものではない(「朱房の小天狗」)。「探偵」は、現実の複雑な多面性を解き明かしながら、そうした大人の事情に押し負けず、単純な線を引いて事態の解決に取り組む人物のモデルだと捉えられた(「ビリーパック」)。興味深いのは、探偵というシンボルにこのような理想が託された社会的背景を鶴見が指摘していることである。*1

その鶴見の指摘は以下の通り。

戦後の少年探偵の活躍の背景には、その作者たちと同世代の戦後少年兵士のもう大人たちをあてにするなという声が響いている。*2

 このような探偵たち、そして白土三平が描いたような忍者たちのような理想の存在に、決してなれないとは理解しつつ、しかし自身の準拠枠として「想像的変身」を行うことで、私たち自身もまた、少しずつ変容していく可能性をもつ。

 著者はさらにそれを普遍志、日常の様々なディティールに目を凝らすことが「想像的変身」のモーメントになりうることを指摘してこの章は終わるのだが、肯定的な準拠枠としてのフィクション、という回路はまさしくわたくし自身がなんとなく試みてきたようなことをスマートに言い換えられた、という気がした。

amberfeb.hatenablog.com

 昨年末に出した個人誌で奇しくも「探偵」を扱っていて、そこで鶴見の探偵論を参照していればもうすこしポジティブな厚みを出せたのかも…と思ったりしたのですが、まあまあ。

 

 話はずれますが、鶴見が念頭に置いていた白土三平の忍者が無名で歴史に残らない、わたくしたち労働者ないし大衆の相似形であったとすれば、現在もっともポピュラリティを得ているニンジャといっていいだろう『NARUTO』が、どうにもそうした忍者という存在の系譜に無頓着であるようにしか思えないことは、やはり不幸なことなんだろうなと思う。

 

 そのほか、鶴見俊輔の「言葉」とその実践のズレ、また介護の負担を姉に押し付けつつ、しかしその姉への視線は極めて冷たかった…というような挿話はたいへん印象に残りました。小熊『1968』なんか読んで、60年安保からその遺産を適切に1968のべ平連につないだ戦後思想の良心…という鶴見イメージがぼんやりと脳内に形成されていたわけですが、当然それにはおさまらない、もっとなまぐさい鶴見の姿が浮かび上がってた、という気がします。

 というわけで、たいへんおもしろくよみました。みなさんもよむといいですよ。

140時の制約があったとはいえ、雑な要約失礼しました!

 

 

 

 

*1:pp.188-9

*2:p.189より孫引き