『ノマドランド』をみました。上映終わる前に劇場でみることができてよかった。以下、感想。
アメリカ合衆国、2012年。バンに乗り、無辺の荒野をドライブする女。彼女にとってそのバンは、寝泊まりする場所でもあるらしい。アマゾンの倉庫、国立公園近くのキャンプ場、大規模な農場、そうしたところで日々の糧を得、そして大陸を流浪する彼女の日々と生活。
ジェシカ・ブルーダーによるルポルタージュ『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』に着想を得た、中国生まれのクロエ・ジャオ監督による映画。主演は『ファーゴ』、『スリー・ビルボード』のフランシス・マクドーマンド。同著作に登場する「ノマド」たちが本人役で出演する。
それぞれの理由で住処をなくした、おもに高齢者たち。彼女ら・彼らがキャンピングカーやバンで、漂泊しつつ生きるさまを、大きな事件を導入することなく淡々とした目線で写し取る。おそらく、アメリカ合衆国という場所のリアルを明白に切り取った映画なのだろう。
巨大資本の都合によって季節労働者として雇われ、繁忙期が終わればすぐさま追い立てられるさまは、ある目線でみれば疑いなく「大資本による搾取」なのだが、この映画にはそうした社会問題を糾弾するような調子は希薄である。ただ、彼女の生活をとりまく「現在」として、肯定も否定もなくただ現実としてある。カメラに映る彼女は、そのことを淡々と受け入れ、そして漂泊する生活者であることにある種の誇りめいたものを感じているような佇まいすらある。
根無し草の生活者である、という彼女の姿に、アメリカ合衆国の始原の開拓者の姿を重ねる見立てもあるようだが、それはピントを外しているように思える。少なくともこの映画のなかでは、漂泊する生活者は、黄昏時の大陸を、あるいは人生の黄昏時を生きる人々のように思えるから。
このフィルムは、未来のヴィジョンのようなものを描き出すことを決定的に拒否している。彼女の目線の先にあるのは、すでに過ぎ去りし日々への追想であり、あるいはまさに現在立ち現れる、アメリカ合衆国の美しい大地だけである。ほとんどルーティンのように移動し続け、季節に応じて各所をめぐる彼女の巡礼は、(死による中絶がなければ)止まることのない円環を描いているような調子がある。そこには未来、そしてそれに付随するものとして立ち現れるであろう希望は存在する余地がない。それは端的にいって、歴史の終わりと形容してもいいと思う。
海の向こうの観客が、メランコリーな黄昏時の気分を共有しているのかはわからない。しかしそこに、明白な同時代性のようなものをわたくしは感受したのである。
「希望は残っているよ。どんなときにもね」と少年はいった。しかしそれは少年にのみ許された特権であるのかもしれず、希望や未来を剥奪されてなお現在にのこる「何か」を見出そうとしたこの映画の挑戦に、我々は慄くべきなのかもしれない。
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とはいっても、黄昏時に春の予感を告げた千反田えるさんに、わたくしとしては賭け金をおきたいところです。