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たそがれどきの神話と倫理――『風の谷のナウシカ』感想、また『シン・エヴァンゲリオン』のこと

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 『風の谷のナウシカ』をはじめてみたのは、小学校低学年のころ、金曜ロードショーでだった。ふだん、21時には床に就いていたから、それは特別な時間だったし、たぶん夢中で画面にくいついていただろうと思う。まだ宮崎駿という固有名を意識する前に、ほとんど通り魔的に洗礼を受けたわたくしのような人間は決して少なくないだろうし、その意味で金曜ロードショー宮崎駿の手になる諸作品を定期的に流してくれることの教育効果はありがたいものだった。

 その後、新型コロナウイルス感染症をきっかけとした2020年のリバイバル上映ではじめて劇場で鑑賞する機会が訪れた。映画公開後も書き継がれ、途方もないヴィジョンを提示してみせた漫画版を経由してなお、映画『風の谷のナウシカ』の結末は強烈なカタルシスをもたらすものだった。その感触は、昨夜自宅で鑑賞しても同様で、あらためてこの映画のもつ力を思い知らされたという気がする。

 さて、いまさら確認するまでもないことではあるが、1984年に公開された映画『風の谷のナウシカ』は、1982年より雑誌『アニメージュ』に連載された宮崎駿による同名漫画を原作としているが、原作は映画公開後も1994年まで書き継がれ、映画とはまったく異なる結末を迎えることになる。稲葉振一郎が『ナウシカ解読』のなかで主張しているように、思想的な深みでいえば漫画版は映画版をはるかにしのぐ射程をもっていて、わたくしは映画版に接してしばらくしてから漫画版を読み大きな衝撃を受けたが、それはありふれた経験だろう。

 映画版の結末である救世主伝説の成就は、漫画版ではひとつの通過点、乗り越えるべき一つの座標でしかなく、それを超えて「たそがれ」の時を生きる人間がまというるかもしれない輝きを見事に画面に描き出してみせた。毒に汚染された大地の「たそがれどき」を生きる人間たちは、清らかな空気と水で満たされた「朝」がきたならば滅びゆく運命なのだと告げられる。映画版では青き衣をまとうものの導きでやがて到来する楽園として暗示される「清浄なる地」。そこにナウシカたち「いま」を生きる人間たちの居場所はないのだ、と示す漫画版は、自覚的に映画版を乗り越えようとする試みであるだろう。

 その世界の真実を告げられたナウシカの強烈なアンサーは、漫画版の最大のハイライトといっていいだろう。


私達の身体が人工で作り変えられていても
私達の生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている
その朝が来るなら 私達はその朝にむかって生きよう
私達は血を吐きつつ くり返しくり返し
その朝をこえて とぶ鳥だ!!

 苛烈な未来を引き受けてなお、「いま・ここ」の私達、あるいはその子どもたちは生きうるのだし、そういう仕方で「いま・ここ」の生を肯定しなければならないのだという倫理。血みどろの戦火を潜り抜け、ここに至ったからこその強度が込められたこの宣言は、何度再読しても胸を熱くさせる。

 むろん、映画版にはこのくだりはない。目の前の危機はさしあたって去ったが、風の谷のその後が明るいかどうかも定かではない。しかし恐ろしいことに、それでもこれですべては決着したのだという強い納得感がある。かつて虚淵玄は「ハッピーエンド」を語ることの困難について書き記していた。物語をハッピーエンドに落着させようとすると、どこかで「黒」を「白」と強弁するような無理が生じる。それでもなお作品世界に誠実であろうとするならば、それは作家に強烈な負荷をもたらす、と。

 稲葉振一郎は上記の『ナウシカ解読』の新版でそれを「ハッピーエンドの試練」と名指し、いくつかのすぐれた作品(むろん漫画版『風の谷のナウシカ』を含む)はその試練を切り抜けているからこそわたしたちに感銘を与えるのだと指摘している。おそらく稲葉の見立てや用語法とは異なるだろうが、この語彙を用いるとするなら、映画版『風の谷のナウシカ』もまた、漫画版とは全く別の仕方で「ハッピーエンドの試練」を越えている――ご都合主義な結末を無理なく演出してみせている――という気がした。それは軽やかで強靭なアニメーションの力であると同時に、神話的な構図を借景としていることの効果かもしれない。漫画版のえらさは、その神話的な構図を見事に書き換えてみせたことだろう。天孫降臨にもにた救世主の神話ではなく、血をはきながら飛ぶ鳥に託した、たそがれどきの神話へと。

 

 こうして映画版と漫画版とを相互に参照してぼんやり考えていくと、映画版に参加したあるアニメーターがのちに手掛けることになる作品が想起される。アニメーターの名は庵野秀明、作品は『新世紀エヴァンゲリオン』。この作品もまた、同じ作家の手による再話の機会を得、そして先般完結をみたことはあらためて確認するまでもない。映画版『ナウシカ』を『新世紀エヴァンゲリオン』の位置に置くなら、漫画版『ナウシカ』はさながら『新劇場版』じゃないか、と思うんだが、漫画版『ナウシカ』の強度に改めて触れると、ほんとうは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にも、メタな次元を導入せずに、ベタな次元でやりきる途があったのではないか、と空想してしまうのだ。

 『エヴァンゲリオン新劇場版Q』以降、ポスト・アポカリプス的な環境が前景化し、あの赤い大地には『風の谷のナウシカ』の荒廃した世界の残響がこだましているようにも思える。『ナウシカ』が描かれた時代の「たそがれ」どきと、いまのそれとではまったく手触りが異なるだろう。だからこそ、漫画版『ナウシカ』が結部で打ち立てたような倫理を、庵野秀明という作家が「いま・ここ」と対峙するかたちで示すこと。それがわたくしのほんとうに求めていた『シン・エヴァンゲリオン』だったのかもしれない。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』における第3村のシークエンスは、凝った構図が百出しておもしろい場面なのは間違いないし、碇シンジが世界と和解するために必要な時間だったというのもわかる。しかしそこでの生活のイミテーションめいた雰囲気――庵野秀明という作家がむしろそのイミテーション性を引き受けることを責任としているのはわかるんだが――は、『風の谷のナウシカ』で描かれる、終末のなかでそれでも生きようともがく生活者たちの強度と比べて、やはり決定的に弱かった、といわねばならない、と思う。

 漫画版『ナウシカ』を、宮崎駿は越えらえるか。ほとんど情報が明らかでない新作にぼんやりそういう期待を抱いている。しかし、宮崎がこれまで描いてきたのは「きみ」を対象とした問いかけでなく、「かくあるべし」という可能性に満ちた規範であった、という気もするのだよね。

 

 

 

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