河野啓『ヤンキー母校に恥じる ヨシイエと義家氏』を読んだので感想。
本書は、かつては北星余市高校の卒業生にして元不良の教師としてメディアに取り上げられ、その後自民党の後援を受けて国会議員に転身した「ヤンキー先生」こと義家弘介を追ったルポルタージュ。著者の河野はテレビマンで、北星余市時代の義家を取材した「ヤンキー母校に帰る」の制作者。義家が全国的な知名度をえるきっかけを作った人物である。本書刊行は2024年11月。本書の結部が書かれたのはまさに裏金問題に揺れる2024年の衆院選の真っ最中で、クライマックスも選挙活動中の義家に著者が接近する場面に置かれているが、その後結局義家は小選挙区・比例ともに落選、2025年現在、義家は政界引退を表明している。
河野の前著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』のなかで、恩師の薫陶を受け教員時代は平和憲法の重要性を説いていた彼が、いまや恩師の思想など投げ捨て自民党の極右議員となってしまったことに忸怩たる思いを抱いていることが直截に書かれていたが、その記述を膨らませるかたちで企画がスタートし、「ヤンキー先生」を世に送り出した人間として、ある意味でのけじめをつけようとしたのが本書。それは、著者が取材してきた教育者としての「ヨシイエ」と、自民党の国会議員「義家氏」を切断しようとする試みでもある。
義家自身への取材は断られてしまったため、主に義家とかかわった友人や元同僚などへの取材をもとに書かれている。それによって欠席裁判的な雰囲気もにじんではいるが、丹念な取材によって、義家自身の語りを抜きにしても彼のパーソナリティを摘出しえていると思う。義家の知人が「悪い顔になった」と語る、まさにその顔を表紙にもってくるのは、本書の意図を雄弁に語っている。
義家は「ヤンキー先生」として有名になり著書もものしたあと、北星余市は退職し横浜市の教育委員会に移っている。義家自身の著書では高校でおこった大麻問題などをその原因として書いているようだが、同僚らの証言によると、多数の講演を請け負ったためオーバーワークになり、またそのことで本業がおろそかになり周囲の教師と軋轢が生まれ…というような職場の事情や、車やマンションの購入費用で家計が火の車になり、講演を引き受けて金銭を稼がざるをえない状況にあったことなどが書かれている。また、退職間際には生徒指導でトラブルもおこし、その生徒は退学、のちに自殺すら企図したという衝撃的な事件も関係者から語られる。
このあたりの、メディアによって自身の姿を誇大に表象されてしまったがゆえに、自分の本来の力量を越えた役目、責務を背負ってしまい、それで自分自身を本来の姿の何倍も大きく見せようとし、しかしそれで首が回らなくなって、夢だと豪語していた教師を辞めざるを得なくなる…というのは『デス・ゾーン』で取り上げた栗城史多と通じるところがあると感じた。栗城の賭け金は自身の命だったのでそれを失うことになったことと比べて、職場をやめればそれで済んだ義家は幸福だったような気もするが…。
義家についての総括として、夜回り先生こと水谷修と、元文部科学次官の前川喜平の言が後半部に置かれているが、それも上記と重なると思う。
ヤンキーはね、その場で考える。その代わり、その場は必死なんだ。命も張るし、後先どうなってもいいわけだから。今で生きてる。その今で生きてるヨシイエが目の前にぶら下げられた地位と金に飛び付くのは自明の理だよ。*1
要するに、人間としての芯がない、ということだと思いますけどね。目立つ行動はするんだけど、じゃあ本当に確固たる思想を持っているのか、っていうと、なかったように私には見受けられますね。まあ、そういう人は実際たくさんいます。自民党の右派と言われる人たちは、じつは信念持っていないって人が多いんじゃないか、って気がしますね。まわりの人が言っているから、自分もそれに同調しているみたいな人が。*2
メディアがつくりあげた絢爛たる虚像に飲み込まれて変質していった人間、いうなればメディアに狂わされた人間を、義家、栗城と2人も取材した著者。その自責の念が本書を書かせたのだろうと思うのだが、栗城と違い、国会議員を辞しても義家の人生は続く。だから著者とヨシイエ/義家氏の物語はいまだ終わっていないような気もするのだが、本書の続きがどういうものになるか、想像もつかないよ。
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