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夢かまぼろしか────河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』感想

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (集英社文庫)

 河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』を読んだので感想を書いておきます。

 無謀ともいえるエベレストへの挑戦を繰り返し、2018年に滑落死した栗城史多。広く知られるようになる前から彼に注目し、ドキュメンタリー番組も企画した著者が、その挑戦と死までの道程を跡付ける。著者は北海道放送でキャリアを積んだ放送畑の人物で、かつて「ヤンキー先生」こと義家弘介が世に出るきっかけをつくった一人でもある。教員時代は平和憲法の重要性を説いていた彼が、いまや自民党の極右議員となってしまったことに忸怩たる思いを抱いていることは本書でも直截的に述べられていて、栗城もそうして政治の道に進むのではと想像していたこともあったようだ。

 わたくし自身、栗城史多という人物を知ったのはネット上で「プロ下山家」などと揶揄されているのをみかけたのがきっかけで、それゆえ彼のことを軽侮していた。特に広く拡散された以下の記事など、その印象を強化したという気がする。

森山編集所: 栗城史多という不思議

 本書を読んでその印象が変わったかというと、そういうわけではない。読む前と後とで自分がまったくちがう人間になっているような経験こそがすぐれた読書体験であり、既知の事柄や印象を強化するような読書は怠惰の産物である、というようなクリシェにわたくしも同意するところはある。本書を読むのは後者に近かったのかもしれないが、しかし同時代のメディア環境を生き、死んだ人間のことを知るにつけ、いろんなことが頭をめぐったので、そういう読書もまあ意味はなくもないのかな、とは思ったりした。

 栗城は登山家としての能力は低かった。以下の引用部でそれが端的にあらわれている。

エベレストに出発する前、森下さんは栗城さんを酪農学園大学のトレーニング壁に誘ったという。ところが、
「あいつ、上まで行けないんですよ、1年生でも登れるのに」
その1年生も「テレビに出ている有名な栗城さんがこの壁を登れないなんて……」と困惑していたそうだ。
「その前は冬に羊蹄山(1898メートル)に行ったんですけど、あいつ、ボクからどんどん遅れて、結局7合目ぐらいで下りることにしました」
リベンジを口にしながら、栗城さんは技術も体力も前年を下回っていた。
「1回目にあれだけ悔しがってたのは何だったの? 今まで何してたの? って……呆れましたね」

 しかし、北海道の財界などをまわって自身の夢を語り、資金を調達する、その能力は抜きんでたものがあったのは本書でも印象的に触れられるとおり。これが起業家の実践であれば、失敗して多額の負債を背負うことはあろうとも、命までとられることはない。しかし栗城の資金調達の、あるいはアテンションを集めるための担保は自身の命そのものだった。

 こうした資金調達の能力にすぐれ、しかし実際的な能力をもたない人間みたいな類型をわたくしはカジュアルに軽侮する気持ちがあるのだが、その典型かつ巨大な成功を収めているのは西野亮廣ではなかろうか。西野は(かつてはしらんが)いまはオンラインサロンに集う人間たちを搾取し、彼らを猿回しの猿のように駆動されることで一つのエコノミーを成立させているように思える。しかし栗城は自分自身がまさに猿のように命を懸けることで、場の重力を成立させていたように思う。

 西野のつくった(それは力量のあるスタッフによってルックのうえでは高クオリティを保っているようにみえた)アニメ映画を、映画評論家の柳下毅一郎はこう評した。

西野亮廣のこしらえるものの胡散臭さはまさにそこにある。自分にとって切実なものは何もないまま、ファンたちの耳に心地よいものを作り、ただ「信じること」だけを訴える。だが本当に訴えたい中身などないから、語るのはたいへん抽象的な説教にならざるを得ない。「夢を信じて、結果を恐れず前に進め」という説教自体は別におかしくはない。問題は、それ自体が目標だというところにある。何かの寓意として「夢を信じる」ことがあるのではなく、最初から最後まで延々と文字通り「夢を信じろ」と言い、「上を見るんだ」と言いつづけるのだ。「信じる」ことがいちばん大事なのであり、夢の内容は決して問われないのである。

 詐欺師たちの語る夢は、まぼろしのように空疎である。わたくしたちの使命のひとつは、そうした夢の空疎を喝破し、もっと地道で、実質のある理想を鍛えていくこと、その地道さに耐えていくことにあるのではないかと思うのだが、しかしこれも言葉にしてしまうと空疎なものだ。