
『スマッシング・マシーン』をみたので感想。
20世紀末。レスリングから総合格闘技に転向し、向かうところ敵なしの活躍を続ける男、マーク・ケアー(ドウェイン・ジョンソン)。日本で行われる「PRIDE」でも精力的に闘っていたが、リングの上での激しい攻防は確実に彼の身体をむしばみ、ほとんど鎮痛剤の中毒のような状態にもなっていた。恋人のドーン(エミリー・ブラント)、戦友のマーク・コールマン(ライアン・ベイダー)にはそれを悟らせないように振舞っていたのだが、不意の敗戦の衝撃で、ケアーは精神の均衡を崩していく。
ベニー・サフディ監督による、総合格闘技黎明期の巨人を題材にした伝記映画。主演のザ・ロックことドウェイン・ジョンソンは製作にも名を連ね、この作品に賭けた並々ならぬ意気込みを感じさせる。ベニーの兄ジョシュ・サフディも同年『マーティ・シュプリーム マーティ・シュプリーム世界をつかめ』を監督していて、こちらも(時期はずれるが)日本を舞台にしたスポーツもので、奇妙な縁を感じさせる。わたくしは残念ながら『マーティ・シュプリーム』は劇場で見る機会を逸してしまったのだが…。
現実のマーク・ケアーは1968年生まれで、1972年生まれのドウェイン・ジョンソンとは4歳違い。ジョンソンがプロレスの世界でスターダムを駆けあがっているころ、ケアーもまた総合格闘技の世界で常勝を誇っていて、もしかしたら当時から意識していた存在だったのかしら、なんてことを思う。ジョンソンにとっては自身の若いころに匹敵するような体づくりをして臨まなければいけない時代設定だったともいえるが、その肉体は見事に鍛え上げられていて、超一流の総合格闘家としてまったく違和感のない仕上がり。
その筋骨隆々の男が演じるドラマは、わかりやすいサクセスストーリーではなく、むしろキャリアの下り坂に差し掛かるまさにその時期を扱っている。これはドウェイン・ジョンソンが感銘を受けたというドキュメンタリー『スマッシング・マシーン』がそういう構成だったようなのだが、だからこの映画も全体のトーンは鬱々としている。
総合格闘技での戦闘は爽快感は少なく、リアリズム的に人間と人間の殴り合いを映し出す。地面に引き倒し、顔面に容赦なく攻撃を加えるケアーたちの様子はかなり凄惨。当のケアーらはその凄惨さに頓着しているようにはみえないが、しかし恋人とのデートの際に遊園地でみた車同士のぶつかり合いのパフォーマンスを(他の観客とちがって)冷や汗を垂らしながらながめるケアーの姿からは、この男は無意識下では総合格闘技での戦いに忌避感を抱いているのではと思わせもする。
このグロテスクなアリーナから降りた日常のマーク・ケアーは、鎮痛剤オピオイドに依存する薬物中毒者であり、また恋人との関係の摩擦で神経をすり減らすふつうの男でもある。彼と恋人は決してドラスティックに不仲であるわけではないが、序盤、恋人のつくってくれたスムージーを、脱脂粉乳と生乳のちがいを気にして捨てて自分でつくりなおす場面が象徴的だが、根本的なところで相手へのリスペクトを欠いているようなところがお互いにあり、それが運命の決戦前夜での破局的な結末につながってゆく。
究極的といっていいほど研ぎ澄まされた肉体をもつ男が、魂の強靭さでも肉体に匹敵するものをもっているわけではない、という当たり前のことを、この映画は残酷に映し出す。だからこの映画の類型は『ロッキー』のような青春譚ではなく、ジェーン・カンピオン監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のような、一見強靭にみえる男の弱さにフォーカスした悲劇だ。この映画と同年に公開され高い評価を得たポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』もまた、(マーク・ケアーのような強靭な男ではなく弱々しい男の、ではあるが)男の弱さにフォーカスした映画だったが、同作がその弱さが秘める力を楽観的に描いたのに対し、この『スマッシング・マシーン』は弱さそのものを丁寧に彫琢している。それでいて、ケアーが敗北に沈む結部には奇妙なカタルシスもあり、見終えた感触はそれほど後味の悪いものではない。
米国のアカデミー賞では必ずしも高い評価を得られなかったようだが、ドウェイン・ジョンソンのキャリアのなかでもひときわ輝く佳品だと思います。
しかし、光浦靖子や大沢たかお、布袋寅泰(しかも本人役)が登場したり、バックでB'zが流れていたり、奇妙な懐かしみを感じさせる映画でもありました。石井慧の登場にもびっくりしたよ。
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