宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

橋本健二『階級社会 現代日本の格差を問う』についてのメモ

階級社会 (講談社選書メチエ)

 

 橋本健二『階級社会 現代日本の格差を問う』を読んでおしゃべりしたので簡単にメモ書きを。

 「一億総中流」から「階級社会」へ

 本書は「階級」という眼鏡を通して現代日本社会をとらえようとする試み。「格差社会」、「不平等社会」、「下流社会」などなど、現代日本の状況を言い表す語彙は90年代後半以降さまざまなものが生まれた。しかし著者は、それらの語彙ではなく、あえてマルクス主義のにおいのついた「階級社会」という言葉を提案する。そうした「階級社会」として日本をとらえたとき、はたしてどのようなものがみえてくるのか。

 階級とは「人々を、生まれた家の豊かさや環境、さまざまな資産や才能の所有、うんと不運などにもとづいて相互に分け隔て、私たちの周囲に明らかな亀裂をもたらしつつある」*1構造、という風に定義される。

社会科学的にいえば階級とは、同じような経済的な位置を占め、このために同じような労働のあり方、同じような生活水準、同じようなライフスタイルのとのにある人々の集群のことである。それは時代によって、それぞれの社会の状況によって、みえやすかったりみえにくかったりする。*2

 戦後、高度成長を経た日本社会においてそうした階級構造はみえにくくなっていたが、いまやそれが再びみえやすくなってきている、というのが著者の認識。それは2000年代になって雑誌記事の見出しに「階級」という言葉があらわれる頻度が増えたことなどが根拠として示される。「一億総中流」の幻想が崩れ去り、「階級社会」が切迫性のあるものとして感じられるような状況が訪れた、と著者は見立てている。

 とはいえ、資本家階級が労働者階級を搾取する!といったカール・マルクスの「階級」概念がそのまま適応されるわけではもちろんない。著者が提示するのは以下のような4類型である。

  • 資本家階級:経営者を指す。中小企業の経営者が大部分を占める。高い幸福度、保守性。
  • 新中間階級:管理職につながるキャリアをもつことの多い男性事務職。高い学歴。リベラルな傾向。
  • 労働者階級全体の6割、政治的関心は低い。
  • 旧中間階級:自営で農業や商工業を営む。労働者出現以前から存在。

 これら階級の類型は、プーランツァス、ローマー、ライトなど新しい階級理論を踏まえてのものらしい。

資本主義国家の構造 1―政治権力と社会階級

階級・危機・国家 (中央大学現代政治学双書)

 このような階級構造を措定したときに、資本家が労働者を搾取している、というよりはむしろ、新中間階級が労働者階級を搾取しているような状況にある、と著者は指摘する。

 こうした構図に果たしてリアリティはあるのか。もはやマルクスの時代とは違って、労働者階級には労働者階級としての自覚というのは生じようがないのではないか。おしゃべりをしていたときにこうした疑問が上がったんですが、それは確かにそうだなあ、とは思います。

 でもそうした自覚、みたいなものが問題になるのは「階級」が運動と密接に結びついているという場合のみというか、運動する主体としての「労働者階級」というのを念頭においている場合のみ、という気がするんですよね。単に、社会を分析するための概念として措定すること自体には、リアリティはさして問題ではない、という気がする。そうした概念を通してよりクリアに状況が見通せるようになったときに、実感としてのリアリティみたいなのも生じるんじゃないか。

 とはいえ「階級社会」という見立てでみえてくるのは、あくまで各階級間の搾取・被搾取の関係性である、という気もする。社会のマクロな見取り図を、「階級」という眼鏡は見せてくれるけども、個別具体的な「労働者階級」のありよう、のようなものには焦点が当たらないんじゃないか。

 本書のなかでは「階級」という視点から日本映画や梶原一騎の漫画などが分析対象にあがっていて、それは確かにその中にはたらく一つの機制を明らかにしえていると思うんですか、なんというかやっぱり、どこか違和感がぬぐいきれないというか、「階級」という観点だけでいいのか、という感触があって。

 

排除

 そうした個別の事例を的確に摘出する概念として、「社会的排除」があるんじゃないか、と思います。反貧困運動で知られる湯浅誠は著書、『反貧困』のなかで貧困をめぐる排除のありようを以下のように整理している。

  • 教育課程からの排除
  • 企業福祉からの排除 
  • 家族福祉からの排除 
  • 公的福祉からの排除 
  • 自分自身からの排除

 この中でも特に「自分自身からの排除」というのがクリティカルだなあと。

生きることと希望・願望は本来両立すべきなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となるような状態。これを私は「自分自身からの排除」と名づけた。*3

 このような排除のありようをミクロに描き出すことのほうが、よりマクロな視点から搾取のメカニズムを考察するよりも、なんというか社会に対してクリティカルなんじゃないか、と思ったりしました。

 なんとなく漠然としていてあれですがとりあえずこんな感じのことを考えました。

 

 

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 

 

 

貧困と社会 (放送大学教材)

貧困と社会 (放送大学教材)

 

 

 

 

*1:p.6

*2:p.6-7

*3:p.62