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パンチラインとラブレター――押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう』感想

誰も語らなかったジブリを語ろう (TOKYO NEWS BOOKS)

 ここ数日、押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう』を読んでいたら、こんな文章が流れてきて、ああそうか、ほんとうに亡くなったのだな、という気持ちになりました。

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 『誰も語らなかったジブリを語ろう』が世に出た時点では、無論高畑さんは存命で、その落差というか、断絶にくらっとしたのですが、それはともかくおもしろく読みました。以下感想。

  本書は押井守ジブリの全作品を論評すっぞ!その歴史的使命が終わったタイミングだからこそ総括すんだよ!という感じの趣旨で自由闊達に作品/作家語りを展開。以下、収録されているパンチラインを引用する。

千尋』ですが、いつもと同じように自分がやりたいシーンをただつないだだけの映画ですね。*1

あの人(宮崎駿)の妄想は確かに人を揺り動かす力があるんだよ。だけど、1本の映画の構造を作り出すとか、世界観を作り出すとか、物語を作り出すとか、そういう才能はない。それは相反するものだから。*2

高畑さんを語るときに使わなきゃいけない言葉は「クソインテリ」です。……前作『火垂る』から知性と教養だけで映画を作るようになって、その次の本作(『おもひでぽろぽろ』)では結論から遡って映画を作っている。そうなると、もはや映画監督とは言えない。プロパガンダを発する文化人です。*3

 この遠慮ない攻撃。宮崎駿についてはそのアニメーターとしての才能に惜しみない称賛と感嘆を送る一方で、その映画の構造のなさを執拗に攻撃する。また、やはり長い年月をつかずはなれずの距離で過ごしたがゆえに、そのパーソナリティと作品の読みとが不可分に結びついているのも感じた。本書で開陳される読解の魅力のひとつは、そうしたいわば裏口から覗き見たかのような感覚であるように思われる。特に鈴木敏夫の意向が制作にどれほどの影響力をもったのか、みたいな話は。

 しかし業界内幕の下世話な話に終わるわけではもちろんなくて、作品語りを読んでいて、ああ、やはり僕は(よい観客では決してないけれど)押井守という監督に映画の見方の一端をその作品を通して教えられていたのだなあ、と気付く。押井の拘泥する映画の構造へのある種のフェティシズムに僕が共感するのは、間違いなくその作品によって啓蒙されたからだよなと思う。

 それと作品の美点を称賛するときの熱っぽさがよくて、『千と千尋の神隠し』の最良のシーンは水面を走る電車の場面だ(あれはジブリ作品のなかで反復されている「三途の川」のモチーフをもっとも美しく真に迫るかたちで描写したものだ)と絶賛し、『ハウルの動く城』のガチャガチャと動くドアノブで行き先の変わるドアは、まさにおっさんのパーソナリティの切り替わりの表現なんだと明らかに興奮して語るさまは大変楽しそうでした。

 一方で押井が繰り返し物語が破たんしていると激しく糾弾する『もののけ姫』は、僕はおそらくそれが破たんしている(言い換えれば類型を逸脱している)がゆえに好きで、そうした破たんしているがゆえのえもいわれぬ迫力に、物心つく前の僕は映画館でぶちのめされたのだろうなと、今さらになって思ったりもする。

 というわけで、これは押井流の一種のラブレターでもあるなあと思いますが、しかしこのひねくれたラブレターを読んでいるタイミングでとんでもない直球のラブレターを読んでしまったのは、ちょっと幸福とはいえないかもなあとも思います。

 

 

身体のリアル

身体のリアル

 

 

 

*1:p.96

*2:p.134

*3:p.162