宇宙、日本、練馬

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吉浦康裕監督作品における「他者」―『水のコトバ』から『アルモニ』まで

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 前回の記事の続きということで、オールナイトイベントの感想を。トークショーに関しては、メモをもとにまとめたのでそちらをご覧ください。

「新文芸坐×アニメスタイル セレクションVol.55 吉浦康裕の軌跡」 吉浦康裕監督のトークショーのまとめ! - 宇宙、日本、練馬

 今回、自主製作時代の作品を含めた吉浦監督の作品を見たわけなんですが、ジャンル的にはSFを基調とながらもいろんな作風の作品をつくってらっしゃるんだな―、と感じたんですが、その中にも一貫したテーマが見いだせるんじゃないかと思いました。それが「他者」の問題です。そのことを軸に、ちょっと感想を書いておきたいと思います。

 吉浦監督の作品における「他者」

 自主製作時代の作品、『我ハ機ナリ』と『キクマナ』については、正直理解が追いつきませんでした。自分が作品を理解する際、以下に「言葉」や「物語」に頼っているのか、ということに改めて気付かされた思いです。

 というわけで、以下ではそれ以降の作品、つまり『水のコトバ』、『ペイル・コクーン』、『イヴの時間』、『サカサマのパテマ』、『アルモニ』それぞれの作品における「他者」位置づけを自分なりに整理しようと思います。

 

『水のコトバ』ー「他者」の他者性

 

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 吉浦監督が自主製作したアニメ、『水のコトバ』は、喫茶店を舞台とした会話劇。7人の客の会話を軸に、お話が進んでいく、10分ほどの短編だ。女性に振られた男と喫茶店の女性店員、「友達の友達」から聞いた話で盛り上がる女性二人、お互いなにやら噛み合わなそうな男2人、本を読み続ける男。会話している内容は関係性がないように聞こえ、まさにただ会話に興じているようにも思える。

 それらの会話のどこに注目するのかで、作品の印象も大きく変わってくる気がするが、僕が着目したいのは、ラストと大きく関連しているように読める、二人の女性の会話だ。これは友達の友達から又聞きしたエピソードとして、会話の俎上に上る。

その子には好きなカレがいたんだってー。今まで会ったひとの中で、その彼こそ一番相性が合う気がするわー、とか言ってるのよ。そしたら実はそのカレ、―男じゃなかったんだって。

  この挿話が、結末と大きくリンクする。女性に振られて管を巻いていた男が最後に突き付けられた事実、気が合うと思っていた女性が実は...、という展開を先取りするかのごとき台詞として解釈できる。

 その含意するところは、すなわち「他者」はどこまでも「他者」で在り続けるということ、すなわち理解したと思っても理解しきれない残余がどうしたって存在するという「他者」の他者性に他ならないように、自分は思える。この「他者」の他者性の問題は、のちの『イヴの時間』でも別の形であらわれているように思われる。

 

『ペイル・コクーン』の「他者」ー距離も時間も離れた、どこかのだれか 

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 「他者」の問題は、吉浦監督の初の商業作品『ペイル・コクーン』にも見出すことができる。『ペイル・コクーン』は、地球の環境が激変してしまった遠い未来で、失われた地球の過去を「発掘」、「分析」する男女を描いている。この過去の発掘と分析というモチーフは、歴史学を学ぶ人間としてビビッとくるものがあるんだけれども、それは「他者」の話とはそれる気がするのでまたの機会に書こうと思います。

 『ペイル・コクーン』における「他者」は、もうすでに失われてしまったであろう遠い昔の記録の断片の中にあらわれる。古い過去の記録の中に断片のように現れる「他者」たちは、時間も距離も途方もなく遠くにいる、どこかのだれかだ。ゆえにその「他者」との交感は双方向的ではありえず、一方的な働きかけにとどまる。そのため、主人公の男性以外の人物はそれに意義を見出すことに困難を感じて興味を失い、主人公だけがその「他者」の声に耳を傾けようとし続ける。

 その「他者」との交感が、物語の結末で主人公の住む世界に対する認識を一変させることになる。「他者」こそが、閉塞した主人公たちの現状認識を一変させるブレイクスルーになるという仕掛けが、『ペイル・コクーン』の物語の核になっているといっても過言ではないだろう。その意味でも、『ペイル・コクーン』は「他者」との交感に望みをかけ続けたその熱情が成就する物語である、といったら言い過ぎだろうか。

 

イヴの時間』の他者ー人間にとっての「他者」=アンドロイド

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 吉浦監督が一気に脚光を浴びるきっかけとなった*1イヴの時間』は、アンドロイドが社会の中に一般的に存在している近未来を舞台に、人間とアンドロイドの交流を描いた作品だ。全6話のオムニバス形式で語られた物語は、人間の高校生リクオを主人公としつつも、喫茶店「イヴの時間」で織りなされる様々な人間/アンドロイド模様が描かれる。それのため「他者」というモチーフもお話によって様々な取り上げ方がなされているように読むことができる。それぞれのお話にとっての「他者」の描かれ方はまたあとで書くとして、『イヴの時間』全体を通して描かれているのは、人間にとっての「他者」であるアンドロイドとどう向き合うのか、という問題にあるといえよう。

 作中で、アシモフのロボット3原則がたびたび引用され、それがギミックとして効果的に機能している。

  • 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  • 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
  • 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 この3原則を読むと、ロボットが「嘘をつくこと」を禁じていない。そのことが、作中で大きな意味を持つ。序盤のエピソードで主人公リクオは、ハウスロイドであるサミィが、自身に対して嘘をついていること、命令していないことを勝手に行っていることにすさまじい嫌悪感を抱き、それを鋭い言葉にして吐き出す。リクオがこれほどまでに嫌悪感をあらわにした理由はなぜか。それは、それまで無自覚のうちに感じていた、「アンドロイドの行動・思考は理解できて当然」という前提を、サミィが突き崩したこと、すなわちサミィの他者性が突如としてあらわとなったからである。完全に理解していると思っていたものを理解していないという恐怖。それこそリクオに衝撃を与えた「他者」の問題ではなかろうか。

 『水のコトバ』でライトなタッチで描かれた「他者」の他者性が、ここでは極めてハードな問題としてあらわれてくる。そのサミィの他者性を、リクオがどう受け入れていくのか、ということが『イヴの時間』という作品全体の中で描かれていく。

 結局、リクオはサミィの他者性の中に、「もっと理解したい」「もっと役に立ちたい」という極めてポジティブな思いを見出すことによって、それを受け入れていったように思われる。「他者」が理解しきろうと思っても完全には理解しきれない、他者性を帯びているからこそ、「もっと理解したい」という思いが生じ、その結果としてコミュニケーションも発生する。理解できないことは恐怖である一方、むしろ理解しきれないからこそ「面白い」。他者性のポジティブなとらえ返し、それこそ『イヴの時間』の物語の骨子なのである。

 

『サカサマのパテマ』-サカサマの「他者」

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 『イヴの時間』に続いて吉浦監督が手掛けた『サカサマのパテマ』は、よりダイレクトに「他者」、それも異質な他者の問題を扱っている。現実に生きる人間と同様に地面に対して重力を感じるアイガ君主国の人々と、空に吸い込まれるように重力を感じるサカサマ人。物語の中で、その二項対立は何度も繰り返し描写される。それはシークエンスが変わるたび転倒し、やがては劇中で当たり前の前提とされていた罪人/非罪人の対立軸さえも根本的に転倒され、サカサマのヒロイン=パテマとヒーローであるエイジの交流を通じて、二項対立図式自体が緩やかに解体される。

 『サカサマのパテマ』で印象的なのは、パテマとエイジ、その二人の交流の中で見出される「思いやり」の在り方だろう。エイジはパテマと出会った当初こそ、サカサマの「他者」であるパテマの置かれている状況と、そこから生じる途轍もない恐怖心に無頓着であるが、次第にその状況を理解・共感するようになる。エイジには、空に対して落ちていくという感覚は、体感的には理解できようはずもない。しかしそれでも理解できない「他者」を思いやることはできる。こうした他者理解の方途を、この二人の関係から読み取れるような気がするのだ。この思いやりこそ、強固な先入観によって形作られた壁を打ち破る可能性なのではないか。それこそ、『サカサマのパテマ』のすがすがしいラストから読み取れる「他者」との関係の可能性だと僕は感じた。

 

『アルモニ』ー共感理解の可能性

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 吉浦監督の2014年5月現在での最新作、『アルモニ』における「他者」は、その舞台設定と相まって、そのリアルさが際立つような「他者」であった。おそらく現代日本の、どこかの高校のあるクラス。そこで主人公本城彰男は、同じクラスの真境名樹里に思いを寄せている。いわゆるスクールカーストの下層に位置すると思われるオタク友達とつるむ彰男と、スクールカースト上位っぽい雰囲気を漂わせるイケイケ集団の友人と仲がよさそうな樹里は、全く接点などないかのように思われた。

 この二人がつながりを持つきっかけとなったのは、全くの運命の悪戯だったといってよい。しかしこの二人が、というか樹里が彰夫に親しみを感じるようになったきっかけは、偶然などではない。彰夫の態度こそ、樹里と共感理解する道を開いたのだ。樹里だけが理解していた「世界」を彰夫が尊重し、理解したいという姿勢を示したこと。これこそ、この二人が、なぜか繋がれた唯一の理由に違いない。

 これが示しているのは、「他者」が如何に他者性を帯びていようと、共感する態度さえあれば関係性を構築できるかもしれない、という希望だ。その意味で、『アルモニ』は明確に『サカサマのパテマ』の延長線上にあると言っていい。

 

「他者」という補助線―その妥当性はあるのか?

 今回、オールナイトの感想というか、一つの吉浦監督の作品論を語るために「他者」という補助線を引いてみた。この「他者」というのをひとつのキーとした理由は、やっぱり『サカサマのパテマ』から受けた印象が大きい。『サカサマのパテマ』でダイレクトに描かれた「他者」、そこから吉浦監督のキャリアを眺めてみようと思い至ったのが、この文章を書いたきっかけだ。

 その補助線ははたして有効な補助線たりえたか。それはわからない。記事を書いているうちに、この「他者」という言葉、なんだかマジックワードを使っているような気分になってきて、どうにも煮え切らないものを感じもした。そういえばこの前書いた『輪るピングドラム』の感想もそんな感じだった。

 

『輪るピングドラム』感想 きっと何者にもなれない人のための「生存戦略」 - 宇宙、日本、練馬

『輪るピングドラム』における「運命」ー『まなざしの地獄』から考える - 宇宙、日本、練馬

 吉浦監督の作品のみならず、古今東西あらゆる作品が、「他者」を不可避的にテーマとしているようにも思えてきた。この補助線の妥当性は、もうちょっと考えてみる必要があると思います。とはいえ、僕がオールナイトという機会で吉浦監督の作品を見たときにこう感じたことは確かなので、こうして文字に起こしてよかったとも思っています。

 それと、社会学やらなんやらの知見を使って「他者」について知らないとなーというのがひとつ。というわけで、この記事はまた加筆、修正を加えたいなと思っています。 もちろん、吉浦監督の作品もまだまだ読み込んで。それぞれの作品についても、何れ詳しく感想を書きたいな。

 

追記

『アルモニ』感想。

 

 

 

 

 

*1:と勝手に思っている