『聖の青春』をみました。原作は約半年前に読んだんですが細部は結構記憶の彼方状態みたいな感じで、これはこれで新鮮に楽しめてよかったのかなと思います。以下感想。
『聖の青春』は、夭折した棋士・村山聖の生涯を辿ったノンフィクション作品の映画化。中心となるのは当然松山ケンイチ演じる村山なのだけれど、その役作りの凄まじさはポスターをみただけで看取できるレベルで、松山ケンイチのたたずまいだけで映画に価値があるとすら思う。太った外見は僕の知る松山ケンイチとは明らかな隔絶があるのだけれど、しゃべりや所作はなんとなく変な役柄(実写版『デスノート』のLとか)を演じているときの松山ケンイチと連続性があるというきがして、その点たしかにこの人は松山ケンイチなのだなあと思うのだけれど、しかし外見はあんまり松山ケンイチにみえない、みたいな奇妙な感覚。
映画化に際して、幾人かの登場人物の名前を現実のものから変更したり、細部に変更はあるのだが、もっとも大きな違いはその力点の置き方にある、という気がする。原作では、幼少期からその死に至るまでわりかしまんべんなく紙幅を割いているという印象だったけれど、映画では主にプロ棋士時代の村山を切り取っている。だから、原作では師匠である森信雄との奇妙な師弟関係がとりわけ強く印象に残ったけれど、映画ではそれ以上に、ライバルである羽生善治との関係性がクローズアップされていて、だからクライマックスは羽生との最後の対局の場面に設定されている。とはいってもリリー・フランキー演じる森は、出番こそそれほどだけれど確かな存在感を放ってはいるのだけれど。
羽生との対局をはじめ、作中で将棋がどのように写し取られているかといえば、それはなにより音である、と感じる。冒頭、道端で倒れ込む村山を、近所に住む男が将棋会館の対局室まで運びこむ。ひとまず、村山を運ぶという役目から解放された男がはたと気づくのは、その将棋会館に響く音である。駒が将棋盤に打ち付けられる音、対局時計が無造作に叩かれる音、それらの反復として、まずこの映画のなかに将棋というものは立ち現れる。その音の積み重ねとして将棋というゲームを演出していて、その内容には(少なくとも素人にもはっきりわかるようには)立ち入らない。そのようにて音の緩急と反復によって、勝負の一端を切り取る演出は、そういえば実写版『ちはやふる』でも効果的になされていたよなーとか思ったり。
そしてそうした音の積み重ねとしての将棋の最終局面では、それまでとはまったく別種の音が絶えず鳴り響く。その音とはすなわち、残り時間の秒読み。10時間以上の長丁場の果てに訪れるのは、一瞬の隙も許されない、思考に次ぐ思考を迫られる極限状況。クライマックスにおかれた羽生との戦いはまさしく、その秒読みの音が絶えず響く中で戦われる、両者が精も根も尽き果てようかという壮絶な消耗戦で、それは何がどうなっているかは把握できようができまいが関係なしに、画面にめちゃくちゃに惹きつけられる。
将棋のほかにも、この映画には印象的な音が満ちている。それは村山のアパートで滴り落ちる水滴の音。これは映画のなかでは説明がまったくなされないのだが、原作では病に苦しみ寝床で身動きがとれない状態にあるとき、その滴り落ちる水の音を聞いて、自分はまだ生きているのだ、ということを確認していた、というおおよそこのようなエピソードが語られている。
そのような意味では、彼の日常世界と将棋とは音によって接続されてもいて、それらは同時に迫りくる「残り時間」を否応なしに意識させもする。それはひとつに将棋というゲームの残り時間であり、そしてもう一方は村山の人生の残り時間である。プロになることかなわなかった弟弟子を「お前は今日死んだ」、「負け犬」なのだと残酷に罵倒する場面は、原作でも映画でも異様な迫力で印象に残る場面だと思うのだけれど、それがなぜ印象に残るのかといえば、自由気ままに生きているようにみえる村山が、その実「残り時間」を痛切に感受してもいた、ということがこの挿話に焼き付いているからだと思う。
というわけで、将棋と人生が見事にブリッジした映画『聖の青春』は、映画独自の魅力に溢れているのではないかなーと思いました。緊張感が最高潮に達している場面でフラッシュバックを挿入したりするのすげえ野暮に感じたし、説明過剰と説明不足が入り乱れていてちぐはぐだったり、どことなく単調に感じられたりと不満がないではないですが、映画館に響く音の体験が何にもましてよかったと思うので、帳消しです帳消し。
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実写版『ちはやふる』全然毛色がちがいますが、競技の写し方は親近性があったのではと感じます。
将棋は一人ではできないし、囲碁もひとりではできねえんだよな(すぐ『ヒカルの碁』の話をする)
【作品情報】
‣2016年/日本
‣監督: 森義隆
‣脚本:向井康介
‣出演