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戦争、子ども、ユートピア——『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』感想

小説 機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島 (角川コミックス・エース)

 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』をみたので感想。

 宇宙世紀0079年。地球連邦軍ジオン公国との戦争で、地球圏は荒廃していた。スペースコロニー、サイド7から逃れて転戦し、地球に降りた戦艦ホワイトベースとそのクルーたちは、無人島に残っているというジオン軍の様子を探るため、ガンダムを駆るアムロ・レイらを派遣した。そこで少年がみるものは...。

 1979年に放映された『機動戦士ガンダム』の第15話「ククルス・ドアンの島」を翻案し、二時間の映画にした狂気の企画。監督はTVシリーズの中核スタッフのひとり、安彦良和。「ククルス・ドアンの島」は全体のストーリーにはかかわらない挿話なので劇場版三部作では省略され、安彦による初代の再話の試みである漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』でもカットされていた。それを大幅に脚色して出来上がったのは、明白に今風の技術を使いつつも、オールドファッションな佇まいの映画だった。

 3DCGで描画されるモビルスーツモデリングはよくできていて、止まっているときの質感は作画にかなり寄せている。とりわけ印象に残るのは、クライマックスでガンダムが稜線からぬっと姿を現すところで、この照明をやりたいがために灯台を準備しておいたのね、という納得感が半端ない。モビルスーツ戦闘はさして新味があるわけではない——『閃光のハサウェイ』の鮮烈さも記憶に新しいいまみるとなおさら——なのだが、この登場シーンは抜群によかった。

 映画版の脚色として、実はククルス・ドアンが残っていたのはジオン虎の子のミサイル施設があるからで...という展開になり、精鋭っぽい連中が出てきたりするのだが、それが必ずしも作品のおもしろさにつながっていない。が、そもそもつなげる気もなさそうなので、ある意味潔いなとは思った。TV版「ククルス・ドアンの島」をいま見返すと(直前にdアニメストアで見返したんですよ)、存外おもしろくてびっくりしたのだが、TV版のおもしろさはこの映画にはない、と思う。単発回故にTVシリーズ通してみると話がすすんでいないじゃん!的な減点が無意識に発生するような気がするし、作画もあきらかにへたれているのであるが、単独で見返すと1話のうちに起承転結が詰まっているし、作画もいまみたら愛嬌ですよ、愛嬌。『∀ガンダム』をみたとき、とにかく富野由悠季という作家は出来事は唐突に起こるのだし唐突にしか起こらないという格率を徹底していると感じたのだけど、この「ククルス・ドアンの島」の演出もまさにそうだったような気がする。

 それではこの映画版ではなにを新たに付け加えようとしているかといえば、高畑勲的な雰囲気を感じさせる、島で生きられる子どもたちの日常だったという気がする。とはいえ、それが成功しているとはあまり思えなくて、あのどうみても食料に乏しそうな島で20人あまりの孤児が十分に食っていけるという気は全然しないし、あそこに住んでいるにしては身なりもこぎれいすぎるのが目についてしまう。そんなことに突っ込むのは野暮ってものだと理解はしているけれど、島の自然をちゃんと描写したことからくるこの落差はいかんともしがたい。薄汚い欠食児童のむれが画面に映ったら、それはもうザクだのガンダムだのいっている場合ではなくなってしまうので、ああいう描写になるのは理解はできるが、このことが島というユートピアのうすっぺらさを露出させてしまっている気がするのだ。

 とはいえ、このユートピアには戦争によってすでに穴が開いているともいえる。アムロ・レイが、秘密基地内で生身の人間をガンダムで踏みつぶして殺害するシークエンスの、この映画のなかで明らかに浮いた生々しい嫌な感じは、結部の「戦争のにおい」についての言葉に、ある種実質を与えているとはいえるのかもしれない。とはいえ、やっぱりこれを2022年に公開するという企画が通ったの、謎すぎる。