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流行病の記憶とともに——絲山秋子『まっとうな人生』感想

まっとうな人生

 絲山秋子『まっとうな人生』を読んでいました。いま読んでよかった。ほんのすこし、なんとなく救われた気持ちです。以下、感想。

 2019年、富山。双極性障害の女とその夫、娘。古なじみとの偶然の再会。そして、訪れる流行病。

 2005年に出版され、直木賞候補にもなった『逃亡くそたわけ』で博多の精神病院を抜け出し、九州をめぐる逃避行を繰り広げた女と男が、なぜか偶然富山でばったり再会し、家族ぐるみの付き合いをはじめるが...という筋立て。もちろん、『逃亡くそたわけ』を読んでたら没入感はダンチだとは思うけれど、この『まっとうな人生』だけでも十分におもしろみは伝わるんじゃないか、と思う。

 それは何より、この小説が新型コロナウイルス感染症の流行という同時代の出来事、それが生じさせた空気みたいなものをテクストとして見事に凝縮している、と感じるから。『文藝』2019年冬号から連載がはじまったこの小説は、2019年4月から2021年10月までの期間が章ごとに明示され、富山県での生活が描かれていくが、おそらく出発時の構想からは大きく逸脱したであろうことは想像に難くない。このテクスト世界もまた、われわれの世界と同じように、流行病によって大きな変容を被り、それがテクストのなかで波紋となって人間たちをゆさぶる。

 『逃亡くそたわけ』はあたかもスクリーンの向こうで繰り広げられるロードムービーをみているようにわたくしは読んだが、この『まっとうな人生』は流行病と明確な日付とを媒介にしてこのわたしの生活と地続きの生々しさを感じさせるのだ。その意味で、これはわたくしがあまり小説を読まんからかもしらんけど、この小説を読むという経験はわたくしの遠くない過去の記憶がぼんやりと不随意に読みだされていく、そんな稀有な経験をもたらしてくれる小説だった。あたかもプルースト失われた時を求めて』のマドレーヌや敷石の効果を身体で、実感するような、そんな読み味といってもいい。

 以下に引用する部分など、ああ、この「しんどさ」はこういうことだったのかと腑に落ちるような感じがし、腑に落ちたからなんだという話ではあるのだけど、テクストのかたちでわたくしが(あるいはいろんな人が)感じたやりきれなさみたいなことが残っていくには、めちゃくちゃ意味があるんじゃないかと思う。

自粛は人間関係をぎくしゃくさせる。完璧な自粛なんてないからだ。必ずどこかに矛盾をはらんでいて、接する人はそれをのみ込まなければならなくなるからだ。家族でも夫婦でもぴったり合わないんだということを突きつけてくる。おおざっぱに言えば、みんなが同じようにだらだらと、不安に過ごしているのだけれど、狭い空間を共有すれば、各々に流れている時間は違うということがはっきりと見えてしまうからだ。あたしが今日必要だと思ったことでも、アキオちゃんにとっては不要にびくついているように見える。アキオちゃんが気をつけろと言っても佳音にしたら何を今更と感じるかもしれない。以前はきれいな言葉でお互いを尊重しようなんて言えた。あれはお互いを見ずにいい加減に行動できたからなのだ。*1

 また、随所にアフォリズム的な強度をもった文字列もでてきて、それは強い印象を残す。

「人は死ぬと仏になるというけれど、残された者が少しずつ思い出を洗い清めていくのだろうか。好ましいところだけをより分けて残していくのだろうか。そんなことは生きている者の都合で、その方が心地いいからなのだろうか。*2

 『まっとうな人生』も『逃亡くそたわけ』同様にさまざまなお国言葉があらわれる多言語小説で、その意味でちゃんとした人がしかるべき言葉でこの小説のすごさを語ってくれると思うんだが、まあそれはわたくしの仕事じゃないわね。

 とにかく、こういうかたちで流行病の記憶が書き込まれた小説があって、それを読むことができることに、いささか救われました。みなさん、読むといいですよ。いま・ここのままならなさは消え去ったりはしないけれど、それでも「まっとう」さを信じてやっていくためにね。

 

 

 

わたくし、『逃亡くそたわけ』を読んで阿蘇にいったといっても過言ではないので、富山にもきっといくでしょう。

amberfeb.hatenablog.com

 

この記事も半ば私信という気持ちで書き始めたんですが...ちょっとそういう趣旨の文章にはならなかったかもしれません。

*1:p.96

*2:p.212