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寡黙な叙事詩────『マッドマックス:フュリオサ』感想

SCREEN(スクリーン) 2024年 06 月号【表紙】『マッドマックス:フュリオサ』

 『マッドマックス:フュリオサ』をみました。以下、感想。

 破局的な戦争のあと、閉ざされた緑の地で暮らしていた少女、フュリオサは、ならずもののバイカー集団に拉致され、救出にきた母親も殺害されてしまう。母の仇であるバイカー集団の首領、ディメンタスは水源のある砦を支配するイモータン・ジョーと取引し、その傘下の都市を治めることになるが、フュリオサはジョーの手下、ウォーボーイズのなかに紛れ込み、復讐のため牙をとぎながら成長していた。

 2010年代のもっとも重要なアクション映画である『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のスピンオフにして前日譚。同作でマックスとともに戦った女戦士フュリオサの成長と復讐を描く。『デス・ロード』ではシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサは、今作ではアニャ・テイラー=ジョイが務めている。

 『デス・ロード』はほとんどの場面で車やバイクが疾走し、アクションのつるべ打ちでドラマを駆動していったが、この『フュリオサ』はおよそ15年ほどのスパンで、少女の成長と復讐の成就が描かれるので、『デス・ロード』ほどのノンストップ感はなく、ある種の叙事詩的な風格がある。

 それは無論、アクションに不足があるということを意味しない。『デス・ロード』は2010年代において真にエポックメイキングな作品であったわけだが、この『フュリオサ』はそれほどの革新性────フォロワーが陸続してくるほどの────はないように思える。それが悪いというのではもちろんないが、この『フュリオサ』もまた『デス・ロード』フォロワーのひとつという感じは否めない。とはいえ、タコのような装置で空を飛ぶバイカーたちや、恐るべき処刑の儀式などなど、アクションや暴力のアイデアは非凡で、凡百のアクション映画とは一線を画する。

 フュリオサはじめ、そのメンター的存在としてあらわれるジャックなど、主要人物は概して寡黙。言葉ではなくアクションで状況を突き動かし、ドラマを駆動していくエネルギーこそが『フュリオサ』の魅力の一つであり、またなにより『デス・ロード』から受け継いだ美点の一つでもあるように感じた。ジャック演じるトム・バークの佇まいは(額の黒いペインティングがバンダナのようにみえることも相まって)『メタルギアソリッド』のスネークのよう。台詞は少ないながら強烈な存在感を発揮する、この映画を支える重要なファクターの一つとして見事な仕事ぶりであった。

 『デス・ロード』を知る我々はこの復讐が成就することなどわかりきっているわけだが、その決着のつけ方もひとひねりあってよかった。単に殺害するだけでは、無限に続く報復の連鎖に組み込まれてしまい、勝利とはいいきれないような感触が残ったような気もするが、その肉体を使い尽くしてしまうあの決着には驚きがあった。

 ディメンタスの初登場場面で白衣に身を包んでいる様子や、フュリオサの母親の十字架での死などなど、聖書的モチーフが散見されるような気がするのだが、キリストのイメージが必ずしも善悪と対応せず、さまざまなキャラクターに分かち持たれているのがこの破局後の世界の現実なのだということだろうか。とにかく、おもしろくみました。