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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

恋とフィクション――『中二病でも恋がしたい!』感想

TVアニメ「中二病でも恋がしたい! 」Blu-ray BOX(初回限定生産)

 

 Amazonプライムビデオで『中二病でも恋がしたい!』をみたので感想というか思ったことを書き留めておきます。

  たぶん、今を生きる若者のうちの少なくない割合が、フィクションに心惹かれ、そうしてそのフィクションのなかの登場人物のようになりたい、と願う。彼/彼女らの一部はそれを口に出しあるいは行動に移し、そして時がたってそのことを思い出したとき、例外なくこそばゆい思いをするに違いない。そうして、フィクションと自身を同一化していた時期のことをこう総括する。あの頃は「中二病」だったのだと。

 『中二病でも恋がしたい!』は、そのようにして自分の来た道を総括することで、「中二病」から「卒業」した富樫勇太が、いまだ「中二病」の真っただ中にいる少女、小鳥遊六花と出会うことで、自身がいまだ「中二病」の重力圏にいることを再確認する物語だ、と要約できるのではないか、と思う。それは、フィクションでない世界でそれでもフィクションへの憧れを肯定すること、とパラフレーズできるんじゃないか。

 この作品の感想というより僕の興味関心にひきつけたおしゃべりみたいな感じですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』以降の京都アニメーションの作品と問題意識みたいなものが共有されているというか、同じ線の上にある、という感じがするんですね。「高校で変な女の子と出会い、よくわからない部活に巻き込まれる」という風に抽象化すると、『涼宮ハルヒの憂鬱』と『中二病でも恋がしたい!』は同型の構造をもっている。しかし『涼宮ハルヒの憂鬱』における日常は、「宇宙人・未来人・超能力者」を包摂するフィクショナルなものが現実として存在する、そのような意味において非日常性と溶け合っているのに対して、『中二病でも恋がしたい!』ではそうではない。フィクションはあくまでフィクションでしかなく、それが「中二病」を「中二病」足らしめる。邪王真眼やダークフレイムマスターが実在しないという地平においてのみ、彼らは「病気」なのだ。

 だから、小鳥遊六花は「宇宙人・未来人・超能力者」=フィクションへのこだわりを尋常でなく強めた涼宮ハルヒといえるんじゃないか、という気がして、涼宮ハルヒSOS団の活動を通して、ときたま些細な非日常が生じる(あるいは自身の手で生じさせることもできる*1)日常を受け入れてゆくのに対して、小鳥遊六花はあくまでもフィクションに拘泥する人間として、すなわち「中二病」であり続ける、そのような対比において小鳥遊六花涼宮ハルヒになれない私たちの仮象ではなかろうか。

  世界を改変する力を時に発露する涼宮ハルヒは、フィクションで現実を塗りつぶすことができるわけだけれども、小鳥遊六花は違う。彼女は「中二病」として日常をフィクショナルなレイヤーで上書きしようとするのだけれども、ハルヒのごとく超常的な力をもっているわけではない彼女のそれは、彼女の心象風景を変えこそすれ、現実をどうこうしうるものではない。

 何度も反復される心象風景と現実との落差は滑稽さを生じさせるわけだけれども、現実をフィクションで強迫的に上書きしようとする彼女の振る舞いは彼女の過去に深くかかわっていることが明らかになり、そしてドラマは大きく様相を変え始める。そしてクライマックスにおいては、小鳥遊六花に恋の成就がが訪れる。

 その恋の成就は、フィクションへの憧れと、特別な誰かへの憧れ=「恋」とが実は接続されていたのだ、ということが明らかになる場面で決定的なものになる、といっていいと思うのだけれど、ここで「フィクション」への憧れと、特別な関係性とが接続されてしまったことは、「フィクション」への拘泥という「中二病*2の核心ともいうべき(と僕が勝手に思ている)ものが薄れてしまったんではないか、という気がしたわけです。特定の誰かへの憧れ=「恋」とは、代替不可能・交換不可能なものの希求だと僕は思っていて。その特定の誰かが、特定の誰かであるがゆえに憧れる、というトートロジックな感覚こそがすなわち「恋」の核心なのではないか。

 それにたいしてフィクションへの憧れ=「中二病」は、ある意味代替可能だし交換可能なものでもある、と思う。憧れるフィクションは時によって移り行き、その時々に自身の理想を投影し、陶酔する*3。それを使い捨てとなじることはたやすいが、その時々の自分自身の魂にしっくり馴染むような作品と出会い、その都度救済を得ることのできる、フィクションとはそういうものだと思うし、だからこそフィクションは価値をもつのだと僕は強く思う。

 だからなんとなく、小鳥遊六花にとってフィクションが救いたりえたのは、それが「代替不可能」な憧れと重なっていたからだ、という展開(この読みは五月七日の解釈にすぎない、とみることも可能かもしれないけれど)は、なんというかフィクションに対する憧れ=「中二病」の価値を不当に傷つけているのでは、なんて思ったりもしたわけです。フィクションで現実を塗り替えることなどできない、すなわち涼宮ハルヒではありえない小鳥遊六花という人物には、同様に涼宮ハルヒではありえない私たちの可能性の一端が賭けられていたはず。その可能性が「恋」に収斂してしまったことに、なにやら消化不良なものを感じて、それはおれの勝手な失望だとはわかっているんだけれど。

 

 と、こんなことを思ったりしたんですが、なにせ視聴しているときに十分集中していなかったしこれをかいてるのも視聴からずいぶん時間が経ってしまったし、というところで僕が見当違いのことを言っているんじゃないか的なあれがあるんですが、まあそういう感じです。

 

関連

 

 ハルヒの感想はこちら。


 『中二病でも恋がしたい!』、恋=特別、みたいなことをストレートに提示している感じがなんとなく新鮮。『氷菓』とか『響け!ユーフォニアム』とはまた違った味わいがあったという感じ。


 「フィクションを生きる」、というお話が今のぼくには強烈に刺さって、會川昇『超人幻想 神化三十六年』感想』とか、映画『バクマン』とか、そういう感じを勝手に期待していたのかも。


 

 

【作品情報】

‣2012年

‣監督:石原立也

‣原作:虎虎「中二病でも恋がしたい!」(KAエスマ文庫/京都アニメーション

‣脚本:花田十輝

‣演出:

‣キャラクター原案:逢坂望美

‣キャラクターデザイン・総作画監督池田和美

‣音楽:虹音

‣アニメーション制作:京都アニメーション

 

 

 

 

*1:これは彼女の世界改変能力によってではない、という点が重要なのは言うまでもない

*2:この作品の語法における

*3:「恋」にそういう側面が全くないとは言わないけどさ

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