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自由に目が眩む――トマス・ピンチョン『重力の虹』感想

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 トマス・ピンチョン、佐藤良明訳『重力の虹』を5月末からちまちまと読み進めていて、ようやく最後まで頁を繰りました。なんというか、「読んだという実績を解除するためだけに読んだ」感は拭いきれなくて、自分の俗物根性にとてもあれな気分になってくるのですが、それはそれとして適当に感想を書き留めておこうと思います。

  第二次世界大戦末期、海の向こう、大陸から飛来するV2ロケットが降りしきるロンドンで、女漁りに精を出すヤンキーがいた。その男の名はタイロン・スロースロップ。彼は律儀にもナンパの成功した場所を地図にマーキングしていたのだが、その地図はロケットの落下地点と奇妙な一致を示すのだった。そしてロンドンのパヴロフ主義者率いる(?)異能者集団に導かれるようにして、スロースロップは国家が崩壊し混沌のただなかにあるドイツ=〈ゾーン〉へと分け入り、そこでロケットをめぐる支離滅裂の陰謀劇の渦中へと投げ込まれるのであった。〈ゾーン〉の内部の混沌のなかに見え隠れする、支配と制御とを目論む巨大な力――〈かれら〉。物語はやがて、支配と管理をつかさどる〈かれら〉と、それに抗う〈カウンター・フォース〉との全面戦争の様相を呈してくる。

 あらすじをざっとなぞるとこんな感じかなと思うんですが、おおよそあらすじというものを摘出することなんぞ無意味というか、要約なんてものに収まることなど到底あり得ないくらいにはあらゆる方向に拡散した物語が、パラレルに、しかし当然それぞれが響きあいつつ、自由というよりはむしろ支離滅裂とも思われるような語り口で語られる。訳者解説に、おおよそ5つの作品を複合させたものとして、『重力の虹』という作品は存在するのだとありますが、語り口によってもはや数を把握することかなわない、無数の物語の集積としてこの作品は立ち現れているのではないか、という錯覚すら覚える。

 そのように輻輳的な語りのなかで、「百科全書的」という形容が決しておおげさではない、ロケット科学や分子工学、アフリカの言語、心理学史から同時代のサブカルチャーまで縦横に知識が披瀝されたり引用されたり、もはや「いま、いつ、どこで、だれが、どんなことをしているのか」すら容易に忘却することのできるほどの情報量の洪水に圧倒されて溺れそうになるんだけれども、親切きわまる訳注のおかげでなんとかおぼれ死なずに済むありがたさ。それでもぎりぎり溺れ死なないくらいでもうほとんど必死の状態ではあるわけですが、いやこの訳注の有無で読み進む困難さはだいぶ軽減されているという感じ。感謝感謝です。

 

 というわけで全然わからなかった、というのが正直なところなんですが、ピンチョンの原作を映画化した『インヒアレント・ヴァイス』と響きあう、という感じを受けて、僕の読みはそこに強く引っ張られたなーと。『インヒアレント・ヴァイス』という補助線があったからこそ、なんとか読み進められた、という気がする。

 『インヒアレント・ヴァイス』も探偵モノの体裁をとって蛇行に蛇行を重ねて陰謀の渦の中に分け入っていくお話だと思うのですが、そうしたまがりくねった旅路でヒッピー探偵ドックが眼にするのは、西海岸を覆わんとし、あらゆる場所に手を伸ばし根を張り巡らせる「支配と制御」の力*1。かつて逸脱の象徴だったドラッグすらも力の管理下のものとにおかれ、飼い慣らされ、逸脱すら予定調和なものになっていく。そうした「支配と制御」の力に流されつつも、どうにかこうにかささやかな「自由」だけは、希望の徴だけはなんとか救いとってみせる、『インヒアレント・ヴァイス』はそんなふうに「自由」についての希望を写し取った映画だと僕は思うんだけれど、『重力の虹』もまた「自由」を語る物語だと思ったわけです。

 人びとの背後に迫る〈かれら〉の「支配と制御」。大企業群の集合体としてその姿を垣間見せたりはするけれど、物語のなかでその全容は漠として明らかでない〈かれら〉とはすなわち「魂を取り締まる官憲」*2だという。「重力」とはすなわち、目に見えないけれども確実に働く「支配と制御」の力のメタファーではないか。そしてその重力に抗うロケットは残念ながらこの時代においては、重力の影響を抜けきることかなわず、地に堕つさだめ。ロケット=自由も命運は重力の前に尽きるのか。いやいやそんなことはない、多分。それでも彼らは「自由」を失ってはいないのだ。

「だが、きみは自由だろう。いまは我らみんなが自由だ。それはきみも、いずれわかるよ」*3

「これも仕組まれたことなんだよな、そうだろ?」
「仕組まれていないことって、この世にあるかい」
「それはそう、でも矢印はあらゆる方向へ伸びているの」*4

 実は、どっちつかずの道というのも、楽な道ではないんです。世の中の権威の人に言っときますが、あんた方に見えないからって、存在しないってことにはならない。内なるエネルギーというものも、外に現れたのと同じくリアルなものなんだ。その働きからあんたは決して逃れられない。「強度のなまぬるさ」を感じたことは、あんたはないの?え?ああでもないこうでもないで居続けるのも、英雄や悪漢になるのと同じく、人間的なことじゃないかね。*5

 こんなふうに「自由」をめぐる語りがそこかしこにちりばめられ、そしてそれが四方八方に炸裂するのがクライマックスを飾る「カウンター・フォース」で、それが意味が分からないけどなにかとんでもないものを喚起するんだと思うわけです。迸るカウンター・フォースもまた、「支配と制御」の力によってばらばらにされ、無化される可能性をつねに持っていることは作中でも示唆されるけれども、それでもロケットの夢がある限り、重力に抗う可能性もまた、つねに残り続けるのです、きっと。

 

 なんというかこういう雑な感想しか出てこないあたり最高に「わかってない」感がにじみ出ていてあれですが、はい、とりあえずこんな感想でした。またいつになるかはわかりませんが再読することもあるかもしれません。その時はがんばってください、未来の俺。

 

関連

  『インヒアレント・ヴァイス』もそうでしたが、『重力の虹』もドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』と響きあうんじゃないかとか思ったり。どちらも68年の空気の影響下で書かれたわけだし。


 

  映画版『インヒアレント・ヴァイス』感想。ちょっとあれなのでまた書き直したいかも。


  読んでいるうちに想起したのが舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』。どちらも迂遠極まる旅路の果てにシンプルな価値を徹底的に称揚するあたりは結構近しかったりするんじゃなかろうか。舞城の場合それは「愛と勇気」で、ピンチョンの場合は「自由」、みたいな。拡散に拡散を重ねて収束することのない『重力の虹』と、とりあえず一つの地点に終着する『ディスコ探偵水曜日』とは全然違う読後感ではありましたが。再読の機運高まる。

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

*1:「支配と制御」のワードは佐藤良明訳『LAヴァイス』の解説より。

*2:上巻、p.420

*3:上巻、p.549-50

*4:下巻、p.394。地の文は省略。

*5:p.536