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重力からそっと離れて——『ドライブ・マイ・カー』感想

Drive My Car Original Soundtrack

 濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』をみました。たいへんよかった。以下、感想。

  少し話したいことがある。そう言い残して妻は死んだ。互いに愛し合いながら、一方で同時に男を裏切ってきた妻。その2年後、男は演劇祭で『ワーニャ伯父さん』の演出をつとめるため、広島に滞在していた。男の傍らには、ドライバーをつとめる寡黙な女。自動車のなかでともに時間を過ごすなかで生まれる微かな交感。そして、大きな事件をきっかけに始まる、女の故郷への巡礼。

 『ハッピーアワー』、『寝ても覚めても』の濱口竜介監督の最新作は、村上春樹の短編を原作に、自身の過去のフィルモグラフィの記憶を喚起する道具立てを散りばめて語られる。前作の『寝ても覚めても』が約2時間という穏当な上映時間だったのに対し、この『ドライブ・マイ・カー』はほぼジャスト3時間。しかし、緩やかな緊張が持続していくこの映画の感覚は、その長さをまったく感じさせない。時間感覚のコントロールに関して、濱口竜介という監督の手つきはまさしく名手といっていいとだろう。

 村上春樹『女のいない男たち』所収の短編からモチーフを借りてはいるが、それ以上に濱口の過去のフィルモグラフィを想起させるモチーフが多い。アーティストが地方自治体に招かれるというのは『ハッピーアワー』を想起させるし、劇中劇が重要な役割を担うのは『親密さ』と同様、しかも主演の男が急遽退場し、演出家が代役を担う展開まで反復される。『寝ても覚めても』の男女もしばしば北へと車を走らせていた。原作では、一流半の役者という印象だった家福の妻の不倫相手、高槻は、映画では『ハッピーアワー』の鵜飼、『寝ても覚めても』の麦のような、不気味なトリックスターのような表情をみせるシークエンスがある。また、劇中の「ニュアンスを抜いて台本を読む」という実践は、まさに濱口が自身の映画で取り入れているメソッドでもある。

 このように要素を数え上げてみると、なにやら濱口のフィルモグラフィの集大成というか、ベスト盤的総集編という感じもしてくるが、この『ドライブ・マイ・カー』はこれまでの作品と比べてよい意味でライトタッチというか、もっとも肩の力が抜けているような感じがして、それが映画をより多くの観客に開いている、という感じがする。

 たとえば『ハッピーアワー』も『寝ても覚めても』も、白眉は登場人物たちが険悪な雰囲気になる場面の迫真性だと思うのだが、この『ドライブ・マイ・カー』には、それらの作品のような刃物のような緊張感が支配する場面は存在しないといっていいと思う。そのように感情をあらわにできないからこそ、西島秀俊演じる家福は煩悶し続けるのだし、むしろそのような機会を剥奪されているからこそ、この映画において巡礼の果てに到達する微かな救済に大きな意味が生まれるのだろうと思う。

 北の大地で家福と渡利が交わした会話の変奏として『ワーニャ伯父さん』の結部があり、しかもそれは音声言語ではなく身体の所作によって語られることでより鮮烈な印象を残すことになる、というクライマックスの仕掛けは見事。それでもどうにか生きていかなければならない、という凡庸極まる結論の、しかし凡庸だからこそまというる切実さ。そこに明確に実質を与えうるのは、優れた監督の仕事でしかありえない。車の運転自体は容易くても、「重力を感じさせない運転」は至難である。凡庸さの重力からふっと離れて、ささやかな言葉が切実にわたくしに届いたことの幸福に、感謝しなければならないでしょう。そのように、なにか日常の重力からそっと離れうる瞬間こそ、幸福な映画の時間なのだから。

 

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