宇宙、日本、練馬

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神の街の「果てしなき渇き」――『シティ・オブ・ゴッド』 感想

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 先日、『渇き。』を観た。

『渇き。』 果てしなき狂気の穴 - 宇宙、日本、練馬

 観ている間も、観終わってからもいろんな映画を連想したのだけれども、一番感触が似ているのは『シティ・オブ・ゴッド』じゃないかな―、と何となく思ったのでふと見直してみたくなった。

 もちろん、『渇き。 』と『シティ・オブ・ゴッド』 は舞台も題材も、その描き方をとってみてもまったく違う映画なのだけれども、見終えた今、両者には深く通じるものがあるとの思いを新たにしたので、思ったことを書いておこうと思う。

狂気=暴力の中心 『シティ・オブ・ゴッド』の主人公はだれか?

 『シティ・オブ・ゴッド』の舞台は、今まさにサッカーワールドカップで湧くブラジル、リオデジャネイロ。そのリオデジャネイロの近郊のスラム街(ファヴェーラ)であるシダージ・ジ・デウス=神の街。住む家を失った経済的な弱者がそこに追い込まれる形で形成されたそのスラム街は、現在もその姿を残しており、今では映画の舞台となる1960年代後半から1970年よりもさらに規模が拡大しているそうだ。

 暴力、犯罪、ドラッグにまみれたその街に生きる少年たちを描いた映画が、『シティ・オブ・ゴッド』である。そのスラムに生きる数多くの登場人物、主にギャングやチンピラにスポットがあたり、群像劇的に物語は進行していく。

 

「普通の人間」=ブスカペ

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 数多くの人物の中でも最も重要な人物はふたりだろう。一人は語り手である少年ブスカペ。「撃たれるのが怖い」と素朴に語ってはばからないブスカペは、神の街にあってもギャングというわけでなく、ギャングになることもない。犯罪に手お染めようとしたこともあったが、結局偶然が重なってそれが果されることはなかった。

 ギャングでも犯罪者でもないブスカペは、遠い異国にありながら、容易にその立場を理解することができるんじゃないかと思う。息を吸うように強盗にいそしみ当たり前のように殺人を犯すギャングたちがひしめく中で、このブスカペは異彩を放っていると言っていい。何もかも異常に見える神の街で、かれだけは(我々にとって)「普通の人間」のように感じられる。比較的感情移入しやすいであろう「普通の人間」ブスカペの目を通して、神の街をめぐる物語を観ることになる。

 

暴力の権化=リトル・ゼ

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 そしてもう一人が、ギャング、リトル・ダイス=リトル・ゼ。写真の少年がやがて成長し、神の街を暴力で牛耳ることになる。リトル・ゼはまさしくブスカペの対極にある。少年の時からただ殺人のための殺人を犯して、あまつさえ目上のギャングさえいとも簡単に裏切り、殺す。そしてあっという間に対抗者を一掃して神の街を支配し、楯つくものは幼いものでも容赦しない。仲間ですら気に入らなければあっさり射殺。その比類なき、無邪気なまでの残虐さは我々の共感理解を一切許さない。

 とはいえ、ただ残虐なだけの人間というわけではない。唯一無二の親友、ベネと接する彼は、年相応の感情の動きをみせている。このベネが登場し、ブスカペらとも交流する様は、ギャング映画というよりむしろ青春映画の趣すらある。

 しかしそのベネが死んだとき、リトル・ゼの暴力のストッパーはなくなり、神の街全体を巻き込んでの抗争が巻き起こることになる。その抗争の決着に至る、リトル・ゼという男の物語こそ、『シティ・オブ・ゴッド』が描くものだといえる。リトル・ゼという狂気を中心に、神の街の物語は動いているかのようにみえる。

 

リトル・ゼは主人公と言えるのか?

 そう考えると、『シティ・オブ・ゴッド』の主人公はリトル・ゼである、ともいえるかもしれない。しかし、僕は彼はこの物語を動かす原動力ではあっても、「主人公」とはたり得ていないのではないかと思う。そう考える理由は、彼の物語の結末、ひいてはこの映画全体の結末にある。

 抗争の果てに、リトル・ゼの一派も、それに対抗するセヌーラの一派も共倒れになり、リトル・ゼは警察に身柄と引き換えに有り金も武器も失って路上に放り出される。そこで物語は終わるのかと思いきや、かつて暴力で屈服させたかに思われた幼い少年たち、「ガキ軍団」に取り囲まれ、あっさりと射殺される。

 暴力によって、上映時間の大半で場面を支配し続けたリトル・ゼは、その暴力の根拠たる拳銃をなくした途端、いとも簡単に別の暴力によって倒される。そして暴力の権化、神の街の支配者リトル・ゼがいなくなっても、神の街はなにひとつ変わらない。リトル・ゼを殺害した「ガキ軍団」が、あらたな街の支配者となることが示唆され、物語は幕を閉じる。その凶悪さ、残忍さから唯一無二の存在のように描かれていたリトル・ゼは、ただの取り換え可能な存在でしかなかった。

 

 ここで、「ガキ軍団」こそ主人公である!などというつもりはない。「ガキ軍団」は劇中であちこちに顔をのぞかせるものの、輝くのは最後の場面だけだ。リトル・ゼと同じく、「ガキ軍団」もまた取り換え可能な存在にすぎない。彼らに固有の名が与えられていないのもそれを強調している。リトル・ゼが倒れ「ガキ軍団」が現れたのと同様、「ガキ軍団」が倒れてもまた次の「ガキ軍団」が生まれる。

 あれほど鮮烈な存在感を放ったリトル・ゼを、唯一無二の存在から引きずりおろすことで主人公の座に立ったのは、タイトル通り「シティ・オブ・ゴッド」、神の街に他ならないのではないか。神の街という空間は、唯一無二の存在など必要としない。その街そのものが、暴力の中心を際限なく生み出し続け、そしてまたドラマが紡がれる。暴力の中心の限りなき遷移と再生産。

 そこから逃れるためには、ベネが試みて果たせなかったようにそこから離れるか、ブスカペがそうしたように、神の街を徹底的に客体化し、物語る立場にたつしかないだろう。そうしてはじめて、暴力=狂気から逃れることはできる。しかし、その暴力の渦は、そうしたところで決して消えることはない。

 

神の街の「果てしなき渇き

 『渇き。』と似ている、と感じたのは、そうしたところに原因があるんじゃないかな、と思う。『渇き。』の狂気の中心は、加奈子かと思われたが、しかしその中心は遷移しうることもまた、描かれていたように思う。『シティ・オブ・ゴッド』では、その狂気の遷移がより明確に描かれ、なおかつそれが無限の連鎖を予感させる。名もなきガキ軍団の哄笑は神の街に響き渡り、暴力は際限なくまき散らされ血はとめどなく流れ続ける。

 『シティ・オブ・ゴッド』のほうがよりはっきりとそれを感じたのは、多分「神の街」という狂気=暴力の場を主人公としていたからだろう。『渇き。』の舞台はさいたま市であることがはっきり言及されるものの、そこまで重要なファクターではないだろう。むしろさいたま市という場所の固有性を捨て去ることで、狂気の恐ろしさを身近に感じさせるような意図を感じる。「神の街」という、ある種理解不可能な場の出来事であることを強く意識させる『シティ・オブ・ゴッド』とは対照的に。

 

 こんなことを考えました。『シティ・オブ・ゴッド』、やはりいつ見ても自分にとってオールタイムベスト級の映画だなーと思うので、一刻もはやくBlu-ray版の発売が待たれます。

 

【作品情報】

‣2002年/ブラジル、フランス、アメリカ

‣監督:フェルナンド・メイレレス

‣脚本:ブラウリオ・マントヴァーニ

‣出演(日本語吹き替え)

 

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