冲方丁『マルドゥック・スクランブル』をよみました。さすが名作の誉れ高いだけあって面白かったです。適当に感想を。
卵の殻を破らねば
人体を改造する技術がはるかに発展した近未来。欲望渦巻く重工業都市、マルドゥック・シティ。幼い身体を男の欲望に捧げることでしか生きることのできなかった少女娼婦は、大がかりで計画的な犯罪の犠牲となる。街に渦巻く悪意と野心と欲望とによって殺害されたかに思えた少女は、しかし偶然か必然か、悪意と野心と欲望に対抗しようとする者たちの手によって救われ、戦う力を手にする。
少女の名はルーン=バロット。アジア圏で食される、孵化直前のヒルの卵を加熱したゆで卵の名を冠した彼女を殺害しようとした男は、奇しくも「殻」を連想させる名を持つ男、シェル=セプティノス。卵の殻を破れず、一度は死んだバロットは、最先端の科学の力で息を吹き返し、再び殻を破らんとする。
卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。
ヘッセの『デミアン』をモチーフにした、『少女革命ウテナ』で無数に反芻されるこのフレーズを引くまでもなく、殻を破らねば、彼女に生きる道などない。だから『マルドゥック・スクランブル』は、彼女、ルーン=バロットが殻を破る物語である。
彼女が殻を破るために、そもそも蘇生するために、科学の力を必要とした。常人を遥かに凌ぐ身体能力と感覚、そして自在に周囲の電子機器を認識し介入し操作する力。しかしそれだけでは、彼女は外の世界に出ることはかなわない。ほんとうに必要だったのは、なにより彼女のそばで精神を支えてくれる存在。金色のネズミ、ウフコック=ペンティーノなくして、彼女は殻を破ることはかなわなかった。
そして、殻を破ることそのものより重要なのは、その仕方である。ただ殻を破るだけではだめで、それを正しい仕方で破らねばならない。誤った仕方で殻を破ってしまった男が、ディムズデイル=ボイルド。その仕方というのが、自在に身体を別の物質へと変化させることのできるウフコックとの向き合いかたに端的に表される。
かつてウフコックとタッグを組んだボイルドは、結局はウフコックを道具として自らのいいように、一方的に使いまわして暴力の限りを尽くそうとした。一方、バロットは、ボイルドと同じく、自在に他者を支配する悦び、暴力の快感に身をゆだねそうになったけれどもすんでのところで押し留まり、あくまで対等な他者として、ウフコックとともにあることを選び取る。それが、互いに社会の中の居場所から放逐され、身体を造り替えて生きるしかなかったという点で相似形をなす二人の道を、決定的に分かつ形になった。
忘れる男、忘れない女
バロットと対をなすボイルドを特徴づけるのは、圧倒的な暴力性と、なにより忘却。身体改造によって眠ることができなくなったことを「眠ることを忘れた」と言い表す彼は、忘れることによって「有用性」を証明し、この社会のなかで生き延びてきた。これはバロット殺害を試みた、本作の黒幕の一人ともいえるシェル=セプティノスにも共通する。
『マルドゥック・スクランブル』は、忘れることで己の有用性を保持し続けてきた男二人が、やがてその記憶と向き合わされる物語でもある。シェルは外部に保存していた大事な記憶を空っぽの頭の中に流し込まれ、そしてボイルドも、熾烈な戦闘の最後、事切れる直前に「ようやく、眠れる」と呟いた。眠ることを忘れさせられた男がそれを思い出したとき、在りし日のウフコックとの関係の在り方もまた、思い出されたのではないだろうか。
その意味で、バロットとボイルドの結末を分けたのは、記憶に関する所作であり、おそらくよかれと思って施した手術が彼に眠ることを忘れさせたことが、彼の悲劇を決定づけたのかもしれない。
忘れることを選んだ男たちと比すると、バロットは徹底して記憶にこだわる。彼女が娼婦になるにいたるきっかけを作った父との関係は、物語上で何度も反芻される。それが彼女にとって心に刻み込まれた大きな傷であろうにも関わらず。忘れないからこそ、記憶して向き合うからこそ、あるべき未来を選び取ることができる。誰かを愛するためには忘れてはならないのだ。そんな記憶の政治学が『マルドゥック・スクランブル』には書き込まれているように思われてならない。
関連
続編/前日譚の感想。
冲方さんが脚本をつとめた『攻殻機動隊 ARISE』および『攻殻機動隊 新劇場版』の草薙素子には、ルーン=バロットの影が流れ込んでるよなー、とか思ったり。
卵の殻を破らねば...
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