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世界の終わりで釣り糸を垂らす——『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』についての個人的覚書

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 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』。感想は以下の記事に書いたので、無数のディテールについて思うところを書き留めておきましょう。

みなしごたちの居場所、あるいはまた会う日まで——『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』感想 - 宇宙、日本、練馬

 英語副題について

 『シン・エヴァ』の副題は”EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME”。直接的には、onece upon a time(むかしむかし...)をもじったJ・P・ホーガン『未来からのホットライン』(原題:“Thrice upon a Time”)の引用というガイナックスお家芸、最終話SFタイトル引用ですが、「三度目」というのが、パンフレット冒頭の庵野秀明の言葉に「この作品を三度完成へと導いてくれた」人々への感謝、という言葉と符合しておもしろい。

 素直に考えれば、TV版、旧劇、新劇場版で三度ということになるのだろうけど、TV版+旧劇で一度目、序・破・Qで二度目、そしてシンで三度目、みたいなグルーピングでもいいというか、このくくりのほうが個人的にはすっきりするかもしれない。旧劇から序が10年、Qからシンが9年ですからね、9年。

 

世界の終わりの日常

『シン』、再見して感じたのは明確に4幕構成っぽくなっていて、構造がめちゃシンプルだということ。

  1. パリ解放(アバンタイトル
  2. 第3村での日常パート
  3. ヤマト作戦
  4. マイナス宇宙

 体感では1、2で40分くらい(あのケンスケのカメラの残り時間はおそらく映画自体の残り時間と対応していると推察するのだけど、どうなんでしょう)、3、4がそれぞれ1時間弱くらいか。

 2019年に公開された『天気の子』のクライマックス、および結部をみて、ああ、これは『破』『Q』への新海誠のアンサーだ、と感じた(ブログにも書いた)。

 自身の手で彼女を救った結果、世界はある種の破局を迎える。しかし、世界はそう簡単に終わらないのだ。世界が終わっても、何の気なしに我々は日常を生きるのだ、と、水没した東京の風景は雄弁に語る。

 この『天気の子』がアンサーを返すまでもなく、『シンエヴァ』においても世界の終わりでそれでもジタバタとあがく人々の姿が映されたことが、わたくしは本当にうれしい。そして錦織敦史の(こういう言い方をしても許されるだろう、許されるよね?)綾波は異様にかわいい。これが2010年代を経由した現代のアニメのかわいさなんや、というのがフィルムに刻まれていてほんとうにいい。ぽかなみと同じくらい人の頭をおかしくして二次創作に駆り立てると思う。

旧劇場版の反復としてのヤマト作戦

 人類補完計画発動をめぐるヤマト作戦パートは明らかに旧劇場版の反復というか、再演の趣がある。旧劇場版ではネルフスタッフたちは徹底して蹂躙される側だったが、世界の破局に徹底して抗うヴィレの大人たちの姿に、『シン・ゴジラ』の記憶が喚起される。旧劇場版のように、陰惨な死が画面を覆わなかったこと(アダムスの器侵入のシーンなど、入れようと思えば残酷な死を入れる機会はあったはずなのにそうしなかったこと)に、作家としての大人のなり方みたいなことも思う。

 ヴィレのクルーたちの出番はヤマト作戦パートで終わりかと思えばそんなことはなく、マイナス宇宙の精神世界で親子でやいのやいのやってる時も、世界の終わりに不気味ででかい綾波がぐわっと立ち上がっても、やれることをやる。Twitterで信頼できる人がこういう素朴な労働賛美は気持ちが悪い、と指摘していて、それもわかる。わかるのだけど、労働によって生じる快とか居場所感みたいなものは、少なくともわたくし自身は全否定はしないでもよいと思う(雇用をめぐる問題を棚上げにしてこういうことを書くこと自体が無神経な暴力なのかもとも自省する気持ちもあるのだけれど...)。

 状況につっこみを入れ続ける北上ミドリの演出が効果をあげているかはわからないが、あれ以上ツッコミ役を増やすと完全に底が抜けてギャグアニメの時空になってしまう気がするので、あの塩梅が限界だったのだろう。「おれたちもおかしいと思ってやっとる」というエクスキューズを明示したのはやはり意外だった。

 結果、ヤマト作戦パートまでは結構、痛快娯楽ロボットアニメ風味というか、この延長で決着をつけるとしたら『天元突破グレンラガン』をやるしかないんじゃないかという感じがした。わたくし個人として天元突破エヴァンゲリオンがみたくなかったかといえば嘘なんだけど、まあそれはグレンラガンをみればいいわけですし。アスカとマリとの共闘は得物が『FLCL』だったりATフィールドドリルをやったり、最終的にはアスカがバスターマシン7号みたいになるしで、もうゼロ年代ガイナックスの記憶全部引っこ抜いたるみたいなあれが楽しかったです。

Air/まごころを、君に』の記憶とキャラクターの救済

 ヤマト作戦が全体として旧劇の反復と乗り越えっぽい構造になっているのは上で述べた通りだが、終盤の展開はキャラクターの水準でも反復と乗り越えは明確に意識されていると感じる。ゲンドウとリツコの対峙は明らかにそうだし、躊躇なくトリガーを引き命中させるのは、キャラクターへの贖罪でもあるのだろうか。

 贖罪といえば、まさか旧劇ラストのアスカの引用をああいう仕方でするか、と驚いた。あの頃は好きだったのかもしれない、好きになってくれてありがとう、という台詞は14歳のものではないし(現に作品世界ですらそうなのだ)、「気持ち悪い」も1997年のあのタイミングではそれしかありえないものだったと思うのだけど、こういう仕方もあっていいかもね、という可能性がこうして描かれたことに、どうしようもなく心動かされてしまう。

 あのラストにまったく納得がいかなかった人たちのいくらかが二次創作を書き、そのいくつかをわたくしなども読んだ。これはガルパンなんかもそうなんだけど、無数の二次創作が積み上げられることで、オリジナルと二次創作の境界がだんだん曖昧になっていくというのがあると思う(原作でいってないのにそういうセリフがあったような気がしてくる現象)。新劇場版では破のぽか波が二次創作からでてきたような雰囲気のかわいらしさだし、そうした二次創作の記憶とある種共犯関係を結んでいる気がする。そういえば「アスカは何よりも自分で決断しなかったことに怒る」っていうの、破公開時の二次創作で読んだ記憶が確かにあるんで(ある種ありきたりな解釈とも思うけど、そのありきたりさを正確にトレースしたことが圧倒的にえらいのだ)、これは劇場でマジびっくりしました。あれを書いた人が劇場でみたらありえんアドレナリン出ると思う。カップリングに納得がいくかはさておき...。

 ああいう落ち着きかたに納得いってないっぽい人は結構いて、わたくしも素朴な驚きを感じたが、まあぜんぜん幸福だからいいじゃん、ともいまは思う。少なくとも式波に必要だったのはそういう存在だったんじゃんと。しかし、惣流ではなく式波であったことの理由付け(同型の駆逐艦の引用であることの必然性)はお見事でした。

 また、ゲンドウの最後の「すまなかった」は反復なんだけど『シン』ではモノローグではなくダイアローグになっている点が、ほんとうに『シン』を象徴してるよな、と思う。六分儀ゲンドウは冬月にあったときから不気味な野心家然としていたけど、碇ゲンドウ自身によってリプレゼントされる碇ゲンドウは、これは庵野秀明という作家の投影がどれほど入っているんだろうか、という私小説的佇まい。確かに、親父が野心家マッドサイエンティストだったらマジでボコる以外にないもんね。そういえば、漫画版だとある種の強さの象徴として描かれたゲンドウのATフィールドが、『シン』だとほんとうの弱さを象徴するものとして現れてしまう、という反転は結構おもしろいかも。

 そういえばミサトの父親が(弁明の機会を与えられていないからそうなっているだけという気もするけど)そういう野心家マッドサイエンティストなのかしら。加持を形容して「自己矛盾で(なんちゃらかんちゃらな)超迷惑な男よ」とつぶやくのは、最後は自身を犠牲にミサトを救ったともとれる父への評価と重なるかもしれない。

 「親になる」ことの徹底した肯定は、東浩紀『観光客の哲学』を想起するので、あずまんが傑作と評するのもわかる。見事にシンクロしているから。

 というわけで、救済をキャラクターの水準で徹底して反復するこの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はぜったい変なんだけど、それをやらなきゃいけないという確信にみなぎっているので、ほんとうに強いと思いました。それはともかく、渚司令のあたりのくだりはちょっとよくロジックがわかりません。司令になっているのはシンジに対してゲンドウとネガの関係にあるから?シンジのことをどうでもよいものとして扱おうとするゲンドウと、シンジ以外がどうでもよいカオル、的な。いやちょっとわかんねえですわね。

 シンジの救済が精神世界ではなく、トウジとケンスケという友人のそれぞれの仕方の心遣いでなされる、というのも、作家の経験が投影されているのだろうか、と推測したくなる。やさしくしてくれることのつらさと苦しさ、と同時にそれに救われもすること。

 最終盤において、旧劇場版の記憶を喚起するラストの砂浜からシンジを連れ出すのが彼女だとは正直思わなかった。真希波・マリ・イラストリアスの異物感に拒否反応を示している友人が幾人かいるし、作り手がそれを知らぬはずもなかろうが、この底抜けに明るいトリックスター——彼女を安野モヨコの喩だという人もいれば、スタジオカラーという新たな仲間ととる解釈もみた——が何の気なしに彼を現実へと連れ出してしまうラストが、ぼくはどうもめちゃくちゃ好きらしい。

 

新世紀エヴァンゲリオン2

で、エヴァ2である。釣りエンドである。

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www.nicovideo.jp

これ、当時は肩透かしだなんだと相当叩かれた気がするんですが、まさか2021年になって再評価の流れがくると思わんじゃないすか。いや、釣りにいけないからマイナス宇宙にいくしかないんだけど。肩透かしだと感じさせないためにドラマとかガジェットはあるとおもうんだけど。簡単に話し合いなどできないからこそ、フィクションが必要なんです、たぶんきっと。

 世界の終わりで釣り糸をたらす。これである。

 

 

 

 

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【作品情報】

‣2021年

‣監督:庵野秀明(総監督)、鶴巻和哉中山勝一、前田真裕

‣原作:庵野秀明

‣脚本:庵野秀明

‣キャラクターデザイン原案:貞本義行本田雄

総作画監督錦織敦史

‣音楽:鷺巣詩郎

‣アニメーション制作:スタジオカラー

‣出演