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世界の不気味、現実の透明―—アニメ『ブギーポップは笑わない』感想

ブギーポップは笑わない 2

 いまさら2019年版『ブギーポップは笑わない』をみていました。ここから監督つながりで『Sonny Boy』にすすむか、『Boogiepop Phantom』にいくか、悩みどころですわね。以下、感想。

 死神が出るという。その人が一番美しい時に、それ以上醜くなる前に殺す死神が。女子高生のあいだでまことしやかにささやかれる都市伝説。その名はブギーポップ。都市の中にうごめく不可思議なものどもと交わってしまった少女・少年たちは、その死神を目にすることになる。マントをまとい、芝居がかった口調で話すそれが、世界の敵と対決するさまを。

 上遠野浩平による、90年代後半に始まり無数の作品に影響を与えた、ライトノベルの古典を、2019年にアニメ化。2000年に放映された『ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom』が原作の後日談的なオリジナルストーリーを語ったのに対し、こちらは『ブギーポップは笑わない』『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』など、原作のいくつかの挿話をおおむね忠実に映像化している。監督は『ACCA13区監察課』などの夏目真悟。音楽は『リズと青い鳥』、『ピンポン』などの牛尾憲輔ブギーポップ役には悠木碧が配され、女子高生と異能の存在とを見事に演じ分けて、芝居がかったブギーポップの語りをぎりぎりのところで「あり」と感じさせる見事な仕事ぶり。

 放映前、原作のイラストを手掛けた緒方剛志とひと悶着あったことが未だに記憶される。結局緒方は(キャラクター原案ではなく)「原作イラスト」なる表記でクレジットされてはいるが、そのいざこざが作品に影を落としてしまっているのでは、という感じはぬぐいきれない。端的に言って、澤田英彦によるキャラクターデザインは総じて魅力が乏しく、作品の印象を弱めているように感じられるのだ。主要キャラクターとモブキャラクターの差分が判然とせず、原作の記憶があるので名前から重要人物かそうでないか判断できるものの、そうでなければ視聴に困難をきたすレベルではと感じる。それは主要人物たちもなんら「特別な存在」ではありえない、という格率でもって作品世界を立ち上げようとした結果なのかもしれないが、しかし演出として効果をあげているとはやはり言い難い。

 しかしそれでも、委員長こと新刻敬は(最後の『歪曲王』の挿話で大きな役目を果たすこともあって)ほとんど唯一ポジティブな感触が印象に残っていて、作画監督にクレジットされている半田修平の刻印っぽい感じも感じられて、キュートでとてもよかった。

 さて、この2019年版『ブギーポップ』は、原作が発表された90年代ではなく2019年現在を舞台にしているようで、キャラクターがスマートフォンを使用してメッセージを交換するシーンも画面に写される。しかし舞台を現代に移し、しかしドラマの骨格自体は原作を踏襲していることによって、作品がなにかちぐはぐな感じをまとってしまっているようにも感じるのだ。90年代後半と現在で、「不気味なもの」がうごめく余地のある場所というのは確実に変わっている、という気がする。だとすれば、舞台を現在に移し替えたことで、そのドラマは決定的な変容を被らざるを得ないとわたくしは思うのだが、しかし作り手は必ずしもそのことに頓着しているようにはみえないのである。

 彼女・彼らが連絡を取り合うスマートフォンには、ほとんどの場合カメラが内蔵されているはずで、そのカメラによって決定的な瞬間が切り取られることによって、ある種の都市伝説は変容を被らざるを得ないはずだ。マント姿で街を闊歩するブギーポップという伝説は、まさしくカメラによってその不気味さをはぎ取られうる存在ではなかったか。

 『ブギーポップが笑わない』が刊行された90年代後半の空気を、わたくしはうまく思い出せないし、それは原作小説を含む当時のポピュラーカルチャーに接することによって事後的に捏造されたものにすぎないかもしれない。その留保を踏まえて述べるならば、90年代後半の不気味さは、都市の暗闇の中になにか得体のしれない「何か」がうごめいているかもしれない、という不気味さだったのではないか。対して、スマートフォンのカメラがあらゆるものを記録し拡散させ、ネットワークの中で人間関係も可視的な空間のなかで痕跡を残しながら形成されてゆく現在、不気味さは都市の暗闇のなかにあるのではなく、もっと剝き出しで、しかし手は触れられない、なにかそのような透明さのなかにあるような気がしてならないのだ。

 『ブギーポップは笑わない』の原作に接すると、それが書かれた時代のことを否応なしに想起する。時差を経てなお、そうした時代の刻印みたいなものをわたしたちに受け渡すのが古典の一つの役割なんだろう。対して、この2019年版に接したのちの時代の人びとは、なにを想起するだろうか。少なくとも、90年代の記憶も、2019年ごろのそれも、想起の対象にはならないだろう。それをもってこの作品が成功していない、というつもりはない。ただわたしたちのいま・ここのなにがしかを刻印しうるはずのこの作品が、その役目を十全には果たせなかったことは、やはり残念だとは思う。

 

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