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涙の栄光、敗者の倫理────『響け!ユーフォニアム3』感想

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 『響け!ユーフォニアム3』をみました。TVシリーズ1期から9年、まさに万感のフィナーレだったと思います。以下、感想。

 3年生に進級した黄前久美子。北宇治高校吹奏楽部部長として、昨年、一昨年と果たせなかった、悲願である全国大会金賞獲得を目指し、仲間たちとともに決意を新たにする。そこに、吹奏楽の有名校から転校してきた少女があらわれる。久美子と同じくユーフォニアムを携えた少女の名は黒江真由。彼女の存在は北宇治の、あるいは久美子の道に、大いなる波紋を投げかけることになる。

 2015年に放映されたTVシリーズから始まった『響け!ユーフォニアム』の、実質的な完結編となるであろうこの作品は、これまでも語られてきた「特別さ」というモチーフを、部長という中間管理職的な立場に置かれた、あるいは高校3年生という、未来を決めるための岐路に立たされた黄前久美子の姿を通して、リアリスティックな仕方で描こうと試みる。久美子が部長という立場から部内の人間関係の軋轢をフォローしなければならない役目を明確に背負ったことで、いくつかの挿話はまさに人間関係の調整こそが問題になり、また、オーディションをめぐって部内に不和と緊張が広がり、それがクライマックスの展開を準備する。

 1年を1クールで扱うという都合もあってか、あるいは高校3年生・部長という立場で感受される時間感覚がそうさせるのでもあろうが、展開はスピーディーで、アニメ1期・2期で贅沢に描かれた演奏シーンは抑制的。それはこの3期が、演奏シーンの気持ちよさではなく、人間関係のドラマをめぐる負荷をこそ主眼に置いているからでもあるだろう。これまでは巧みな指導者として君臨しているようにみえた吹奏楽部の顧問、滝だが、この3期においては全国大会を経験していない1年・2年に対してはその神通力が十全に働いていないことが明言され、また小道具もスマートに用いて「大人になりきれない」人間として表象されることでその指導者としての未熟さが強調され、それが部長である久美子に強烈な負荷をかける一因ともなる。

 登場人物が関西弁ではなく東京方言で話すという点に象徴的されるよう、アニメ化にあたってはこれまでも武田綾乃による原作からさまざまな脚色が施されてきたが、この3期においては展開そのものをクライマックスにおいて大きく変更している。そのことによって、凡庸なわたしたちが「特別さ」といかなる関係を結んでいけるのか、という問いに、極めて誠実に回答することに成功したといっていい。

 『響け!ユーフォニアム』は涙によって規定された物語である。高坂麗奈という少女が流した涙の謎を、自身も高坂と同じように「うまくなりたい」、特別でありたいと希求することによって久美子は理解することになる。あるいは2年生編である『誓いのフィナーレ』では、限られた時間のなかで、壁にぶつかり、あるいはなにかを諦めることで否応なしに流れてしまう涙のモーメントが丁寧に拾い集められた。そしてこの3期でも、少女たちはそのほとばしる感情を、涙というかたちで表出させてしまわずにはいられないのだ。

 これまで描かれた涙は、すべてのそれが必ずしも挫折や敗北と結びつくわけではない。1期の結部、関西大会への出場権を獲得したことで流されたうれし涙が端的な例だが、しかし、涙がもっとも輝きをまとうのは、それが決定的な挫折、敗北を引き受けようとして引き受けきれず、心中から形而下へと漏出する時であるのは疑い得ない。物語の端緒に置かれたのが、高坂麗奈の悔し涙の謎であったことを想起するならば、そのことは明瞭だろう。だから『響け!ユーフォニアム』は、なによりも挫折に突き当たった、敗北者のための物語なのだ。長谷正人の言葉を借りるなら、「「敗者」が「勝者」に成りあがろうとすることなく、「敗者」のままで自らに誇りを持って生きるとはどんな事なのか」*1、その可能性を探求した物語なのだといっていい。

 だからこそ、黄前久美子は決定的な場面、すなわち全国大会でのソリを賭けたオーディションで敗北しなければならなかったのだ。これは1期で描かれた公開オーディションの反復でもあり、かつてはそれを見守り、あるいは裁く側だった久美子が、裁かれる側としてその場に立つことになる。原作ではオーディションで黒江真由に勝利した久美子が、アニメ版においてここで敗北することによって、キャラクターとしての風格を一気に高め、またここで敗者の倫理とも呼べるようなものを彫琢することを達成しているといってもいい。

 『響け!ユーフォニアム』においては、自ら何かを選び取るモーメントがしばしば強調される。その選択はしばしば「なんとなく」なされるが、しかしその「なんとなく」選んだことの代価を、いずれどこかで払わされることになる。吹奏楽部顧問の滝は、その「選択と責任」のロジックを巧妙に用いることで、自身の(あるいは亡き妻の)願いのために吹奏楽部を奉仕させてきた。そのことは下の記事でかつて書いたとおりである。

amberfeb.hatenablog.com

 黄前久美子にとってのクライマックスもまた、「選択」をいかに引き受けるか、ということをめぐるドラマである。自身が敗者になる道を、自身の率いる組織のために選び取ることで、組織そのものを強靭にすること。それはほとんど自己犠牲、後輩の久石奏の言葉を借りるなら「貧乏くじ」といってよい。「あなたが決めろ、そしてその責任を引き受けよ」という要請、あるいは組織のゆがみが個人に集中してしまうグロテスクな構図に、見かけ上は屈しているようにもみえる。

 しかし、それが久美子個人だけがその問いを理解し引き受けているのではない、という状況をつくりあげることによって、そのグロテスクさと対峙する方途を示しているようにも思える。まさに「貧乏くじ」を引き受けたのだと理解し、涙を流してくれる後輩がいたこと。そしてなにより、個人の願いの成就を優先するのではなく、共同体として強靭になるという自身の選択肢を、、特別な友人が同じくらいの苦しみを引き受けて選び取ってくれること。「敗者としての私」、そのことがもたらす深い傷跡をともに分けあえる関係こそが、「選択の責を引き受けよ」という要請に対して、誇り高く、誠実に向き合うための縁なのだ。

 「うまくなりたい」、そのことを通じて「特別になりたい」、卓越した存在になりたいという、ゆるぎない「確固たる特別さ」への希求を、凡庸なわたしたちはどこかで断念せざるを得ない。そうした究極の「特別さ」は、どこかでわたしたちとは決定的に隔絶し、手の届かない何処かへと去ってしまう。どこかでわたしたちは必ず敗北する。しかしその敗北をこそ自らのものとして引き受けることでこそ、わたしたちの敗北は、かすかで厳かな誇りをまというるのだ。『響け!ユーフォニアム』が彫琢してきたのはそうした敗者の倫理であり、誇りなのであり、涙の道が輝きうるのはそうした誇り故なのだとわたしたちに教えるのである。

 結部において、黄前久美子の流した涙は、全国大会金賞獲得というかたちで贖われたようにもみえる。これはいかにもフィクショナルな「ご褒美」という気がするが、しかしわたしたちは既にこうした涙が現実にはおおむね贖われることなどないと知っているのだから、こうした「ご褒美」が描かれてもよいのだろう。『響け!ユーフォニアム』は涙の栄光をもって閉じられる。しかし栄光なき涙を無数に抱えて生きていくわたしたちに敗者の倫理を手渡したこと、それがこの作品の一つの偉大な達成なのだ。

 

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 京都アニメーションがこれまで反復、変奏してきた「特別さ」をめぐる問題系は、この『響け!ユーフォニアム3』でひとつの決着をみたといってもいいのではないでしょうか。

amberfeb.hatenablog.com

 

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以下、過去に書いたシリーズの感想。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

*1:長谷正人『敗者たちの想像力』p.25