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「敗者」であるままで——長谷正人『敗者たちの想像力 脚本家山田太一』感想

敗者たちの想像力――脚本家 山田太一

 長谷正人『敗者たちの想像力 脚本家山田太一』を読んだので感想を記しておきます。

 本書は「敗者」をキーワードとして、脚本家である山田太一の手掛けた作品を論じていくある種の作家論である。著者の長谷は映像文化論・文化社会学を専門とする社会学者で*1、わたくしはいくつか論文を拝読してはいたが、単著を読んだりはしていなかったのだけど、少し前(改めて調べたらもう3年も前だったのでビビった)に話題になった早稲田大学文化構想学部の祝辞が強く印象に残っていた。

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 この末尾で語られる、「弱者の世界に、積極的に自分の魂を住まわせてほしいと思う」という願いはこの山田太一論とも響きあっていて、だから本書は山田太一のドラマにまったく接したことのないわたくしにすら強く訴えかけるのだと思う。

「敗者」が「勝者」に成りあがろうとすることなく、「敗者」のままで自らに誇りを持って生きるとはどんな事なのか。それがここで山田太一が想像している可能性である。*2 

 山田太一のドラマは「敗者」を「社会的敗者の位置から成り上がっていく「勝利」の過程においてではなく、反対に「敗者」であるままでいかに肯定し救済し得るかを問うた作品*3」なのだと総括し、勝者であることを強迫的に要請されるいま・ここの時空において支配的なメンタリティへのオルタナティブを提起する。

 それは弱者こそが強者なのだとするニーチェ的な価値転倒ではなく、「敗者」がその敗者性を徹底的に引き受けさせられることによって——たとえば『岸辺のアルバム』の結部で自宅が流されていくのを青空の下で眺めるような境地に立つことで——ようやく感受される、そのようなものとして、あるいはまさに日々の生活のままならなさのディティールを積み上げていくことによって立ち上げていったことに、山田の「後衛作家」——山田と同窓であった寺山修司など「前衛」との対比で本書は山田をそう名指している——であるがゆえの矜持をみる。 

 この「敗者の想像力」というタームは、山田太一論である本書の射程をはるか越えて、まったく別の作品にこの視角をあててみたくなるような強い魅力があり、京都アニメーションの作品のうち特に愛着をもつのは、まさしくこの「敗者」の物語が作中にほの見える作品であるなということを後付で強く感じた。

 たとえば『響け!ユーフォニアム』が、謎めいた先輩のドラマを幼少期における父との別離という「隠された過去」によって基礎づけようとする陳腐なドラマツルギーを骨格としながらもその活力を失わないのは、その先輩と対比するかたちで「普通の人」として苦悩する吹奏楽部部長の存在や、自身の希望と家族の期待の間で葛藤する姉の姿があるからだと信じて疑わない。そうした「普通の人」のドラマこそが作品と我々の信頼関係を担保しているのだと思う。あるいは『氷菓』で探偵になりそこなうワトソン役の少年を想起してもいいだろう。

 

 自身の視聴体験を大胆に記述のうちに盛り込み、しかしそれが過剰な「自分語り」に堕すことなく、あくまで作品を「読む」ことを第一においた本書の語りは、こういうことも可能なのかという強く感銘を受けました。たとえば、わたくしくらいの世代の00年代のアニメ視聴経験って——おそらく地方在住であれば必然的に——当時は無法地帯であったYoutubeニコニコ動画と不可分だと思うのですが、それはおおっぴらに語ることは憚られるわけじゃないですか。当時はリアルタイムでの視聴が困難だったがゆえにそれが選びとられたわけだけど、サブスク全盛のいまからすると単に違法な行為にしかみえないわけだし。そこらへんを組み込んだ作品論・作家論ってわたくしは書ける気はしないのだけど、いつか誰かが書くのかしら。

 

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たとえば以下で「NewsPicks系」と名指されるものへの対抗軸として、この「敗者たちの想像力」をおのおのが鍛えていくといいのでは...みたいなことをなんとなく思う。

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