『いだてん』、あっという間に見終えてしまい、大変名残惜しい…。以下、感想。
古今亭志ん生を語り手としてはじまった『いだてん』は、日本マラソンの先駆者、金栗四三から、1964年東京オリンピック招致、そして開催に尽力した田畑政治へと主人公の襷をつなぎ、日本列島の近現代を駆け抜ける。
ストックホルムオリンピックを中盤のピークとし、そして大震災と再起によってフィナーレを迎えた金栗編は貫禄あるドラマだったが、田畑政治を主人公とする後半は、そのある種の狂気をまとった猛進ぶりにけん引され、さらにヒートアップし、息をつく暇もなく昭和の時代を疾走する。
金栗編では、第一次世界大戦によるベルリンオリンピックの中止など、大文字の政治がからむ挿話もあるにはあったが、あくまで自身のはるか遠くで起こる出来事、遠景にすぎなかった。一方で朝日新聞の記者として職業人生をスタートさせた田畑政治は、より大文字の政治に近い場所にいて、高橋是清や犬養毅の知遇を得る。
それらの大物政治家が凶行によって斃れてゆくさまを身近に感じさせることで、ロサンゼルスオリンピックでの水泳チームの大躍進、そしてベルリンオリンピックでの前畑秀子の金メダルという輝かしいモーメントと並行するかたちで、どんどんきなくさくなってくる世相を描き、それが全体に強烈な緊張感をもたらしていた。
この『いだてん』のなかで、スポーツはつねに政治の劣位に置かれる。「民族の祭典」たるベルリンオリンピックを経て、1940年の東京オリンピックは国家の威信を高めるための手段へと変容していく。そのことと並行して、平和の祭典たるオリンピックを開催しようとしているにもかかわらず、国家は泥沼の戦争状態に突入し、国際社会から孤立していく。そこに各国から選手団を迎え入れ、力と技を競うはずだった神宮競技場は、若者たちを戦地に送り出すためのセレモニーの場となる。平和な時代であったならばオリンピックで他国のアスリートたちと──命の奪い合いではなく──しのぎを削るはずだった名も知られぬ人たちが、戦禍の中で命を散らしてゆく。
戦争が終わっても、オリンピックというイベントを政治の磁力の中に巻き込んでゆく意思は継続し、国家の威信をかけた一大プロジェクトという色彩は、1940年東京オリンピックの亡霊のように1964年にもつきまとう。浅野忠信演じる川島正次郎はそうした大文字の政治の代理人として田畑の前に立ちはだかるが、これは政治という場の力学を一人の人物に象徴させたものだろう。
最終回「時間よ止まれ」で国立競技場に響く「万歳」の声は、学徒出陣という暗い時代の記憶からスポーツの場を取り戻すための祈りであっただろうし、政治のモーメントを超え、オリンピックは「楽しい」のだと――第1話の嘉納治五郎の「楽しいの? 楽しくないの? オリンピック」という問いに応えるように──宣言するものでもあっただろう。金栗はじめとするアスリートたち、森山未來や神木隆之介演じる落語家たちの疾走に、運動することそのものの楽しさが託されていることに疑いはないが、一方でそのなかにも否応なしに政治の大きな力が入り込み、アスリートたちは巨大な負荷を背負う。
二人ぼっちで国家を背負った金栗と三島弥彦にはじまり、人見絹枝や前畑秀子らはメダルへの強烈なプレッシャーを感じ、人見はおそらくそれによって自身の命を縮める。作中では明示的に描かれなかった円谷幸吉の悲劇は、この人見のドラマによって先取りされるかたちで内包されているといえる。政治ときっぱりわかれた身体は存立しえない。若き田畑が高橋是清に「金も出して口も出せばよい」ときった啖呵の因果が返ってくる「ぼくたちの失敗」だが、これは田畑個人の失着ではなくて、近代という時空に生きるものの宿命なのだ。
だからこの『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は、その明るいトーンと胸の熱くなる数々のモーメントにもかかわらず、徹底して敗北のドラマだったといえる。記録の上では世界一であった金栗がオリンピックの大舞台では勝者となることなく、また田畑も日本オリンピック委員会の事務総長を解任され、大舞台での栄光をかならずしも得られなかった。それでも彼らは、勝者となれなかった自身の来歴を誇りとし、なんとも晴れやかな顔で運命の日、1964年10月10日を迎える。
この晴れやかさは、2021年のわたしたちが決して手にすることのできなかったものだ。「いまの日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか」という田畑の問いに、口ごもらざるを得ないのがわたしたちのいま・ここだっただろう。それでも、敗者たちのための輝ける時間がいつかくるかもしれない──それはオリンピックでも万博でもなく、広く共有されることのない、個人的でささやかな瞬間かもしれない──ことを夢見てもいいのかもしれないと、かすかに思うのだった。