宇宙、日本、練馬

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『思い出のマーニー』 愛されることで救われる、愛されることでしか救われない

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 米林宏昌監督『思い出のマーニー』を見ました。昨年の『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』と比べると、えらくストレートな感じがする映画だった気がして、それがとてもよかったと思います。毒がないけど、それを補って余りある良さがあるんじゃないかと。以下で感想を。

「生きづらさ」とどう向き合うのか

 大都市札幌で、孤独感と、それと関係するであろう喘息の発作に苦しめられている少女、杏奈が、療養のために親類の住む海辺の村でしばらく暮らすことになる。そこでも同年代の少女たちとなじめない杏奈は、夢に出てきた謎の少女、マーニーと運命的に出会う。

 こんなところが『思い出のマーニー』の冒頭の展開。マーニーとは何者なのか。そして杏奈とマーニーの関係性はどうなるのか。そんなことを推進力にして、物語が展開されていく。ここら辺の謎とき、そのための伏線の張り方なんかも結構巧妙で、杏奈とマーニーの交流のドラマ自体は結構淡々としているんだけれども全然退屈はしない。

 そうした語りのうまさはとりあえずおいて、本作で何がテーマとなっているのかを自分なりに考えようと思う。それは、冒頭の杏奈の独白に端的に表れているんじゃないか。

「この世には目には見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなことどうでもいいの。私は、私が嫌い。」

 杏奈に生きづらさは、「輪の内側」に入れないことに起因する。そのあとすぐに「そんなことはどうでもいい」と自己否定はしていても、それが投げやりなあきらめであることは明らかだ。冒頭、自分の描いた絵を恥ずかしそうにしながらも先生にみせようとするが、不意のトラブルの所為でそれは果たされない。その時の杏奈のどこかさびしげな表情。言葉にはせずとも、「輪の内側」にはいれるかもしれない、という一瞬の期待が、儚くも挫かれたその落胆。「輪の内側」に入ることをあきらめているというポーズはとってみせても、結局あきらめることができない。その心情を、見事に切り取った表情を巧みに描写しているように感じた。このシーンに限らず、人物の表情の揺れ動きは素晴らしい。微妙な機微を丹念に描写しようとする執念が感じられて、それがまた『思い出のマーニー』の魅力だと思います。

 それはさておき、この「輪の内側」に入れない苦しみは、マーニーとの交感を経て、さらに言えば彼女に愛されることによって癒されていく。そこら辺は、『輪るピングドラム』とかなり重なるのかもしれない。

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 『思い出のマーニー』に特徴的な点といったら、ファンタジーの効果によって、時空、空間を軽々と超える愛、それがあって一人の人間は存在するんだということを高らかに示した点にあるんじゃないかと思う。ここら辺のことは、パンフで米林監督自身がこう言っている。

この映画を観てくれた人が、自分は誰かから愛されているということ、愛されていたということを思い出してもらえたら、作り手としてとてもうれしく思います。

 この「愛されている」という感覚に気付いたことで、杏奈は救われた。愛されることそれ自体は、「輪の内側」に入ることとはまた位相を異にする。しかしそれでも、愛されている/愛されていたという経験を自覚すること、気づくことこそ、「輪の内側」へと歩を進めるための唯一の原動力なのだ。その経験こそが、他者へと開いていくために必要なのだ。

 

 こういう主張は至極まっとうで、まさしく児童文学的な、子どもにこういうことを伝えたいという使命感に裏打ちされたものだろう。だがその行儀のよさに、ちょっと物足りなさを感じたりもして。「愛されているということ、愛されていたということ」をどうしても思い出せない人間がこの映画をみたら、どう感じるんだろうか。杏奈という少女の物語は、そういう人間を絶望の淵から救い出すことは可能なのだろうか。そんなところで、舌触りのいい「毒気のなさ」が、物足りなさをも生じさせているような気もするんですよね。そんなことを考えましたが、『思い出のマーニー』、とてもいい映画だと思います。

 

【作品情報】

‣2014年/日本

‣監督:米林宏昌

‣脚本:丹羽圭子、安藤雅司、米林宏昌

美術監督種田陽平

作画監督:安藤雅司

‣出演

 

 

 

新訳 思い出のマーニー (角川つばさ文庫)

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