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暴力と活劇のさきに——『ガンダム Gのレコンギスタ』感想

ガンダム Gのレコンギスタ

 『ガンダム Gのレコンギスタ』をようやくみました。どうやら劇場版を見に行くタイミングを逸してしまった感があり、やや残念です...。以下、感想。

 はるか遠い未来。地球に住む人々は、軌道エレベーターにより宇宙からもたらされる超技術によって生存していた。もはやその由来すら定かでない軌道エレベーターは神聖視され、技術の発展は禁忌とされる一方で、各国はロストテクノロジーをもとに巨大人型ロボット=モビルスーツに代表される軍備の拡大をすすめ不穏な気配も漂う。そんな折、宇宙より飛来した、新型モビルスーツGセルフをめぐって、軌道エレベーター周辺で軍事衝突が起こる。その動乱が、地球帰還をめざす宇宙勢力による運動、レコンギスタの端緒になると、まだ誰も気付いていなかった。

 富野由悠季総監督による、「リギルド・センチュリー」を舞台にした新たなるガンダム。2014年から翌15年にかけてTV放映されたのち、劇場版5部作がこのほど見事完結した。「宇宙世紀」や「ミノフスキー粒子」など、『機動戦士ガンダム』にはじまる宇宙世紀を舞台にしたシリーズとの連続性を感じさせる用語も使われているが、時系列的にはそれらがすでに忘却の彼方にあるだろう、遠い未来が舞台になっていると推察される。

 由来すら忘却された超技術によってつくられた遺物をめぐるストーリーや、技術的には地球の国家を凌駕する宇宙の勢力が地球への「帰還」を試みるという構図は『∀ガンダム』と相似形。しかし、地球圏の人びとの日常を丹念に描き時折牧歌的な雰囲気もあった『∀ガンダム』に対し、この『Gのレコンギスタ』は地球を離れ軌道上、月の裏側、金星圏、そして地球へと行きて帰りしロードムービーが全体のモチーフとなっており、そのなかで各勢力入り乱れての小競り合いが繰り返され、活劇によってドラマを駆動していく。

 地球圏の国家はキャピタル・テリトリィアメリアで対立しているが、それぞれの内部に穏健派と強硬派がおり一枚岩ではない。それが宇宙の勢力である月の裏側のトワサンガと金星圏のビーナス・グロゥブでも同様で、またその時々の思惑で合従連衡を繰り返すので相関図は絶え間なく書き換えられ、勢力同士の関係性を把握することは決して容易くない。正直言ってわたくしはその時々で適切に状況把握をできていたか、ちょっと自信がもてない。「なんとなくわかった」ような気がしてみていた時間が結構あったことを素直に告白しておくべきだろうと思う。これほどまでに複雑な組織間の関係が描かれる『ガンダム』ってほかにないんじゃないか。

 しかしそれでも、この『Gのレコンギスタ』はおもしろかった。刻々と変化する状況に半ばおいてけぼりにされる、それがむしろある種の快になっているという不可思議極まる体験がこの作品にはあるのだ。その快を生み出すのは富野由悠季一流の独特の言語感覚に裏打ちされる印象的な台詞回しや外連味あふれるモビルスーツ戦等のダイナミズムもあるだろうが、吉田健一によってデザインされたキャラクターの、どこか懐かしみを感じさせつつも現代的にキュートなルックによるところも大きいだろう。国家の重要人物の御曹司でかつモビルスーツ操縦の天才、ベルリ・ゼナムというキャラクターが嫌なやつにはみえないのはほんとうにえらい。

 そのキャラクター性もまた、先に引いた『∀ガンダム』のロラン・セアックの朴訥とした異邦人ぶりと対照的だが、作品の核にある思想性という点では両者は極めて近しいとも思う。その思想性とはすなわち、巨大な暴力はかならず理性によるコントロールを離れ、それ自体で自己運動を始めてしまうものなのだ、という格率が作品世界を貫いていること。レコンギスタをめぐる一連の騒乱は、キャピタル・ガード調査部のクンパ・ルシータ大佐=ピアニ・カルータによる人類を強化するための計画が発端となっていたことが明らかになるが、しかし巻き起こった暴力の連鎖は陰謀家の手をはるかに離れ、終盤ではもはやクンパ大佐は傍観者でしかなくなっている。

 『∀ガンダム』では、たとえばコレン・ナンダーやギム・ギンガナムという強烈なキャラクターを暴力性の象徴として効果的に機能させたが、『Gのレコンギスタ』ではある特定のキャラクターが強烈な印象を残すというよりは、錯綜した状況の中で暴力性は偏在していて、どのキャラクターも暴力の担い手になりえる緊張感がある。それが活劇としての強度を担保するという構造になっていて、その意味でこの『Gのレコンギスタ』は暴力の持つある種の魅力を自覚的に作品のなかに取り込んでいる、ともいえる。

 『∀ガンダム』の結末は、暴力の季節が終わり「黄金の秋」を経て、いったん冬の時代の訪れを示唆するものだった。ロラン・セアックが主人の看取りのために静かな庵にとどまることを選んだ一方で、暴力にこそ変革の可能性をみた御曹司、グエン・サード・ラインフォードはいずこかへ去り、近代化の夢が持続していくことが示唆されもする。対して『Gのレコンギスタ』のエピローグの、楽天的な賑やかさ。旅に出る主要人物たちの姿に、グエン・サード・ラインフォードのような再起をかけた暗い決意の影はない。つかの間の休息ののち、おそらくまたやってくる暴力の時代のことなど意に介さず、ひとまずいま・ここで大地に立つことの驚きと喜びのうちに不確かな未来を見出し、それを祝福してみせる所作だろうか。だとすれば、富野由悠季という作家の次なる作品を、待望せずにはいられないというものです。

 

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