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「ほんもの」らしさ求めて────『ラブ&ポップ』感想

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 プライムビデオで配信が終わるというので、『ラブ&ポップ』をみました。未見だったのですよ、ええ。以下、感想。

 1990年代末、東京、渋谷。さまざまな男たちがさまざまな手段で若い女を買い、あるいは若い女が自分自身を売っていたころ。それが「援助交際」とよばれていたころ。12万円のトパーズの指輪を手に入れたいという欲望に突き動かされた女子高生、吉井裕美は、その購入資金調達のため援助交際に踏み切るのだが…。

 『新世紀エヴァンゲリオン』を完結させた庵野秀明が実写映画の分野に進出し手掛けた第1作。女子高生の冒険という主題を、登場人物の身体に装着されたとおぼしきカメラによって収められた映像や、スカートの中を狙ったかのようなローアングルでの映像などなどを細かくカットを割ってつないでいくことで、女子高生的な日常性とは一線を画す、いかにも前衛っぽい雰囲気を濃厚にたたえた映画になっている。その前衛性、というかいかにも前衛的な調子がするという意味での凡庸な前衛性は公開から四半世紀たった現在でも容易に感受される。 

 女子高生を「援助」しようとする男たちは、いずれもどこかに異常性を抱え込んでいて、キャプテンEOを名乗る男(演じるは若き浅野忠信!)や、チック症の不潔な男(手塚とおる)など、一度見たら忘れがたい不気味な存在感でフィルムにおさまっている。とりわけ手塚とおるとともにレンタルビデオ店に入店してから起こる一連の出来事は「気持ち悪い」の一言で、手にべったりとついた精液に、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の記憶も喚起される。

 こうした生々しさがなぜ導入されたかといえば、それは端的に言って「ほんもの」らしさを探求するためだろう。今年公開され賛否両論をよんだ『シン・仮面ライダー』の撮影にあたって、庵野秀明はアクションシーンの段取り感をきらい、暴力のなまなましさを表現しようとした結果、スタッフや俳優に過度な負担を強いていた(ようにみえた)ことを、わたしたちはドキュメンタリーを通して知ったわけだが、これに通じる問題意識が『ラブ&ポップ』にもあるのだろうし、その問題意識がそもそも実写映画という領域へと庵野秀明を接近させたのだろうとも思う(このあたり、『アニメスタイル』の第1号のインタビューで庵野自身がかなり直截に語っていたように思うのだが、手元にない!)。

 『新世紀エヴァンゲリオン』でもそうだが、かつて庵野秀明にとって「ほんもの」らしさが露出するのは、セクシャルな感情が生々しく表出したり、暴力が苛烈に炸裂するその瞬間だととらえられていたのではないだろうか。その意識が『新世紀エヴァンゲリオン』と『ラブ&ポップ』を手にべっとりとついた精液で媒介しているように思えてならない。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』や『シン・仮面ライダー』で探求された「ほんもの」らしさはそうした性と暴力の呪縛からは解き放たれて、もっと偶然性のモーメントを織り込んだものへと変容していて、それを作家のある種の成熟とみなすこともできるように思うのだけれど。

 しかし『ラブ&ポップ』においてドラマの次元で語られるのは、むしろ「ほんもの」を希求することのむなしさでもある。「なにかがたりない」と漠然とした渇きに突き動かされる女子高生が、その欠けた「なにか」の代理表象としての「トパーズ」、すなわち「ほんもの」を求め、しかしそれが得られることはない。ここに「ほんもの」らしさを求めることの不毛とあきらめとが先取りされているといいうるかもしれない。

 そして結部に至って、映画は「ほんもの」らしさを投げ捨て、渋谷川を歩んでいく4人を映して急激にフィクションのほうへと飛翔する。「あの素晴らしい愛をもう一度」と、愛など信じてもいないのにささやくのが、フィクションの作り手の使命だといわんばかりに。

 

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2023年のいまみると、まさに「いま」の渋谷が映し出されている『呪術廻戦 渋谷事変』との差分がおもしろいっすね。